林良斎、名は久中、字は□□、林良斎は其号なり、
又自明軒と号す、讃州多度津の人、其先世々藩老たり、
良斎亦初め藩主に仕ふ、然れど早歳多病にして仕ふること能はず、因りて其職を致して堀江の弘浜の原に弘浜書院を立てゝ此に居り、力を姚江の学に専にし、吉村秋陽、春日潜庵、池田草庵等と交を結べり、草庵の如きは、良斎を以て千古の心友となせり、良斎嘉永二年五月四日を以て歿せり、塩逆述に中斎門人として良斎を挙げ、注して云く、
是れは医師の積りにて、讃州に仕ヘ、内弟子と成る、
此れに由りて之れを観れば、良斎は中斎を師とせしなり、
草庵、嘗て弘浜書院記を作り、良斎を形容して曰く、
君容貌清風、神蕭疎、鬚毛除かず、被服民庶に類す、
其超脱の状覩るが如し、
良斎著はす所自明軒文鈔一巻あり、彼嘗て潜庵に与ふる書に曰く
聖人の聖人たる所以のもの無我なるのみ、而して吾人の独知一点、天機の自然、人力得て与からず、則ち本と無我なり、其の我あるもの、乃ち意欲のみ、今意をして消せしめんと欲し、基本無の天を復せんと欲するは他なし、其独りを慎むにあるのみ、書を読み義を求むること、亦廃すべからずと雖も、苟も独の以て之をに主たるなくんば、則ち玩物喪志たらざるもの幾ど希なり、
又秋陽によふる書に云く、
竊に謂へらく、聖人之無我を以て的となし、慎独を以て功となす、聖賢、時によりて教を立て、其言同じからざれども、其要領帰宿を求むるに、独に事あるにあらざるはなし、学者苟も徒に博渉して其要を知らざれば、適々以て、傲を長じ、詐を滋すに足る、固より其れの私あるのみ、
其言甚だ味あり、此れに由りて之を観れば、亦胸中独り得るところありしこと疑なきなり、
吉村秋陽が良斎に答ふる書に曰く、
往年但馬の池田子敬弊盧を過ぎ、具に高明篤信、好学の状を説く、私心翹企既に久し、云去、凡そ吾党将に相与に志を同うし、先賢の墜緒を継がんとす、宜しく肝胆を洞開し、謙虚、善を楽むの誠、之を鬼神を質して愧ぢなかるべきなり、来教に所謂形論ずるに足らざるもの、実に我心を獲たり、此の如くにして而して後、千里も亦同党なり、嗚呼此学乾坤の正気なり、之れを身に体して立つ所あらんか、即ち所謂丈夫落々天地を掀かすものにあらざるか、則ち所謂往を継ぎ来を開くの功にあらざるか、豈に人生の一大快事にあらずや、区々たる窮達栄辱、何ぞ言ふべけん、云云、
其相許すこと此の如し、乃ち彼我交情の密なる、畧々想見するを得べきなり、