Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.2.24

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大塩の乱関係史料集目次


『 井 関 隆 子 日 記 』 (抄)

深沢秋男校注

『井関隆子日記 上巻』(勉誠社 1978)より



◇禁転載◇


     天保十一年二月十二日 (抄)
   
 今は八年(やとせ)斗にや成ぬらむ。津ノ国に大塩の某とかや、いみじう狂(たぶ)れたる痴(をこ)の者ありて、*(みだれ)を起し、大路の町へ火を放ちけるに、家ども多く焼ほろび、人もそこねたりなど聞えたりき。かの国の*町の司(つかさ)よりはじめ、従ふ人々物の具かため、火矢など放ちかけ、いみじく戦ひ追やらひ、はた近き国々の司など、皆いかめしう兵(つはもの)ども引具し、弓矢なぐひ掻負(かきお)ひ、楯とりなべ、かの国の大城(おほき)をも守らしけるとか。近き世にはさらにきかぬ軍めきたる事有て、ここにもいみしく言(いひ)騒ぎたりしが、もとより其身人数にもあらで、さる大気無きわざし出しげる大盗人なりければ、やがてそれに加りたる人どもまでも、皆重き罪にあひて滅びうせたりき。其時たはぶれに詠る、

 みさごゐる磯うちこえしおほしほにからきめみつる難波人かな

*此時は年の実りいと悪(あし)かりし頃にて、*甲斐国にも一揆とふ物起り、外にも聊(いさゝき)けき事など有と聞えしかど、異なることもなかりき。盗人も世に多かれど、今の世はいと密(みそ)かになんする。まれ\/は引剥(ひはぎ)、押込てふものあれど、大方いやしきわたり、寺などへぞ押入るめる。山立(だち)海賊とて、昔いみじく恐れたるものも、今たえたるにはあらざめれど、いにしへの如物の具かため、太刀薙刀などおび、弓矢掻負ひたるは、画に書たるのみなるべし。近き世にはいと賢(さかし)立ち、うるはしき顔しつゝ、公(おほやけ)、事など取人の中にも、中\/にゆゝしき大盗人有て、いみじき罪にあへる彼是あり。かの*高橋の某とやらむも、近き程のことぞかし。

 
*乱を起し―大塩平八郎の乱は、天保八年二月十九日。

*町の司―この時の大坂城代は土井利位、東町奉行は跡部良弼、西町奉行は堀利堅。

*此時は―天保の飢饉は、四年から始まり、七年にはその極に達した。

*甲斐国―天保八年九月(天保七年八月)甲斐国八代郡岩間村など三六か村の農民は、手代の私欲を理由に一揆を起こした。

*高橋の某―シーボルト事件に連座した、幕府天文方・高橋景保か。文政十二年二月獄死。

     

   Copyright by Akio Fukazawa 深沢秋男 reserved


 『井関隆子日記』は、筆者・井関隆子(いせきたかこ 1785-1844)が、天保11年から15年にかけて、60歳で亡くなるまで書き留めた記録です。
 井関隆子は旗本の娘に生まれ、同じ旗本に嫁いだ女性で、江戸幕府の中枢に近い存在でした。絵も嗜み、『日本の近世 15』(林玲子編 中央公論社 1993)には図版が掲載されています。
 『井関隆子日記』は日記文学としてばかりでなく、歴史的資料として興味深い文献です。

 「大塩の乱」について触れていることは、ドナルド・キーン『百代の過客 下』 (金関寿夫訳 朝日新聞社 1984 もとは朝日新聞連載、1冊本もあり。) の「井関隆子日記」で紹介されています。

 「井関隆子」と『井関隆子日記』についての詳細は、「日本文学研究所」内、深沢秋男氏のサイト「井関隆子日記」(http://koudan.com/takako/index.html)でご覧いただけます。


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