Я[大塩の乱 資料館]Я
2014.9.16

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「大塩の乱関係論文集」目次


「鈴木白藤」

市島春城(1860−1944)

『文人墨客を語る』 翰墨同好会・南有書院 所収  1935

◇禁転載◇

鈴木白藤 廃物利用 返礼の追加

管理人註
  

 前に述べた近藤重蔵の隠れた方面の材料は、多く鈴木白藤の「夢焦録」 に依つたのであるが、さて此の白藤と云ふ人は、余り世間に知られて居ら ぬが、一風変つた人で、こゝに紹介するに足る人物だ。  此人は幕府旗本の士で、相当の学者であつた。近藤や蜀山、其他当時の 文人と多く交はつた。躯幹魁梧と形容された程の大男、極めて健康体の人 で、老いて益々健啖、鰻飯などは、三人前も平げるといふ人物。大の歴史 通で、面白い人物。伝記を語るに妙を得、常に座中の人を傾聴せしめたと 云はれる。且つ書物を多く集めることを好み、之が為に憂き身を窶した。 随つて蔵書に富み、野史百家は勿論、義太夫、小説本の如きに至るまで、 備はらぬは無かつた。  白藤は精力絶倫で、非常の勉強家であつた。どんなことでも、決して労 を辞さなかつた。謄写には殊に妙を得、且つ迅速で、一日数十枚を、苦も なく綺麗に書き上げた。嘗て資治通鑑の欠本を買求めたことがある。補写 して完本にしたいと、しきりに写して居る間に、友人などが、どうせ欠本 なら、俺に二三冊くれと云ふて求める者があると、おいそれと遣つて、そ れを補完する為に又謄写して、一向労を厭はなかつた。斯様にして十冊二 十冊の欠本を補うて、終に完本にした精力には、交友何れも感服した。  近藤は折々白藤の家へ遊びに行つては、大いに飲み倒し、喰ひ倒した。 併し、白藤は一向之を厭ふ様子なく、何時を喜び迎へて馳走をした。之に 見ても彼れは吝嗇家でないことがわかるが、併し、彼れは平生倹素を旨と した所から、動もすれば吝嗇家と誤解された。彼れは、手紙を書くにも満 足な紙を用ゐたことがない。菓子の包紙を伸ばして、それを書翰箋に充て た。又受取書の如きは、例として障子の張替へへ反故を用ゐた。吝嗇家の 誤解は、こゝから来たものであらう。  彼れは、人が本を借りに来ると、何でも貸した。その時は、必ず名刺に、 誰に何本を貸したと云ふことを記して、それを書斎の障子に張りつけるの が例であつた。其の細心の人であつたことが知るれる。又彼れは寸陰も無 駄に過ごすことを惜み且つ厭うた。人と対話する間も、反故紙を細く断つ て、紙捻をひねつたものだ。又毎日、人の訪問や、自分の往訪の記事を日 誌に載せることを怠らなかつた。それが例の「夢焦録」となつたのである。 この「夢焦録」も、満足な紙で造つた者でなく、反故の裏返し、又は手紙 の反故や進物の包紙などを接ぎはぎして、冊子に作つたものである。此等 を見ると、彼れは極端な倹約家だが、人に物を贈る場合などは、些しも惜 む気が無かつた。嘗て友人、市野迷庵から、正平版の「論語」を覆刻した 物を贈られた。白藤は、唯物を貰つて置いては済まぬとあつて、金一分を 包むで返礼に贈つた。友人間に斯る返礼をするのは余計な事であるが、白 藤の潔癖は、返礼せずには居られなかつた。処が或る書物屋から、此本の 売価は金一分であると聞き、売価を贈つたのでは返礼にはならぬと、更に 金二朱を追贈したといふ。  彼れは、無駄なことをするのを厳に取締つたが、意味のあることには、 決して金を吝まなかつた。彼れも一種の変り物であつた。




















窶(やつ)した














































紙捻
(こより)























吝(おし)まな
 


 鈴木白藤は『塩逆述』の写本に関わりがある人物で、近藤重蔵と同時期に、書物奉行を勤める。
 市島春城(謙吉)は衆議院議員などを歴任。
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