Я[大塩の乱 資料館]Я
2012.6.8

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「大塩の乱関係論文集」目次


大塩後素

市島春城(1860〜1944)

『芸苑一夕話 下』早稲田大学出版部 1922 所収

◇禁転載◇

五七 大塩後素管理人註
   

  矢部の大塩論  大御所と謂はれた、徳川家斉将軍の悪政が、大塩事件のごとき騒動を 生んだのは不思議はない。此事件あつて後、三十年にして、徳川幕府は 終に滅びたのである。大塩は、俗称平八郎、名を後素、中斎、又洗心洞 主人と号した。陽明学者で、文芸にも通じ、頼山陽の如きは、深く交は つて之を畏敬した。彼れは大阪に東組与力を勤め、後隠退したが、所謂 大塩事件なるものは、隠退後のことである。彼れは此の事件のため、叛 逆を以て罪を論ぜられたが、大阪の士民は、騒動後も尚大塩先生と云う て畏敬したことを思ふと、彼れが人物の程も想像される。  藤田東湖は、当時名奉行と聞えた矢部駿州(定謙)に就いて大塩の事 を聞き、其の随筆に書いて居るが、それによると、矢部は大塩を傑出の 人物となし、彼れが如き暴挙も、畢竟、憤慨の余りに出でたものであら うと云うて居る。            こゝ  今、矢部の語る所を、爰に掲げて見よう。元来、平八郎は、肝癪持で あつた。しかし、なか/\の人物で、其の与力勤務中、豪商を挫き、細 民を救ひ、奸僧を懲し、邪教を吟味する等、天晴の吏と謂ふべきである。 学問も有用の学を修め、尋常学者の及ぶ所でない。自分の奉行奉職中は、 度々書斎に招き、密事を相談したが、言語容貌決して尋常人でない。彼 れを目して叛逆と云ふは、決して当らぬ。彼れ実に叛逆を謀らんには、 いかで大阪城に立籠らぬことのあるべき。大塩は、平生大阪城の固めの 甚だ手薄なることを憂ひて居つたものである。自分は嘗て平八郎を招き、                    かながしら 食事を共にしたことがある。其時、膳部に金頭と云ふ魚の大きな焼物が 附けてあつた。大塩、憂国の談に及ぶと、忠憤の余り、怒髪、冠を衝く の有様で、如何にも興奮が甚だしいのを、自分いろ/\慰め諭したが、               かしら 平八郎益々激発して、金頭を、首より尾に至るまで、わりわりと噛砕い                        しよゐ て食ひ尽した。自分の家の者は、之を目して狂人の所為だとして、翌日、 自分に、彼れを近づくる勿れと云うた位だが、彼れの持前の疳癪が激発 したので、狂人でもなく、寧ろ彼れが忠誠の発露とも見るべきものであ            あひかはらず るから、自分は、其後も不相変交はつた。さて何故斯る暴挙に出でたか と云ふに、普通の人情として、再三反覆して忠告なり諫言なりをする、 それがどうあつても聴かれない時に、ともすると之を憤り、座に有り合 ふ火鉢などを、其人に投付けたりすることがある。穏かに諫むるのが忠 で、手を出すに及んでは暴となる。平八郎も、数回の忠告が用ゐられず、 終に暴となつたのだ。併し、暴は暴だが、之を叛逆とするは如何のもの                         すこ か。平八郎は自焚したが、所謂死人に口無しである。些しも訊問を為さ ず、直に叛逆罪を以て問ふは、裁判の法でない。自分は、当時、不敬罪                             きよくひ を以て処するが然るべきだと建議したが、自分を以て、犯人を曲庇する ものだと譏るものもあつたと、矢部は言うて居る。矢部は、其平八郎が、   よめ 子の婦にせんと養つた女に姦通したと云ふ事実を、平八郎の罪状の一に 数へて居る事に言ひ及び、それは、下女に置いた者を己が妾にしたまで で、何の仔細もないことだと云うてゐる。  矢部は、大塩乱の前年、大阪西町奉行の職を退き、勘定奉行に転じた が、其年、大阪東町奉行大久保讃岐守の後任に来た跡部山城守が、何か 心得となるべきこともあらば、教へられたいと矢部に請うた時、矢部は、                            かんば 与力の隠居に平八郎なるものがゐる。非常の人物であるが、悍馬の如き       ぎよ もので、よく御すれば用を為すが、御し方を誤れば危険であると語り、 其他は何も言はなかつた。跡部は之を聴き、矢部ほどのものが、一与力 の隠居を目の上に上げて居るなどは不似合だと嘲つた。然るに、何ぞ図                       およ らん、其翌年、青天の霹靂、大塩の暴発を見るにんで、跡部も始めて 矢部の言に服したと云ふ。     ひとゝなり  大塩の為人に就いては、兎角の論が多いが、矢部は、恐らく尤も大塩 を知るものであらう。

 
   


桜庭経緯『矢部駿州と大塩平八郎


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