大塩平八郎 |
△既にして、対外の形勢は愈々切迫せり、而も此間に於て、徳川
氏は国内の異変に驚慌せしめられざるを得ずして、天保八年二月、
大阪町奉行の与力にして陽明学者なる大塩平八郎、大阪に乱を起
せり、是れ飢饉に際して幕府の官吏が窮民を賑はさゞるを憤り、
衆を率ゐて富豪を破壊し、終に大阪城に迫りたるものにて、城
代跡部山城の為に撃退せられ、逃れて一商家に匿れしが、三月
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十七日。捕卒の迫る所となり、火を放ちて自殺しぬ、皇室、浪
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人二大勢力結合の問題外に属せる現象なりと雖も、亦是れ、反
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徳川的思想の系統中より発したる噴火作用に外ならざる也、
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跡部は東町奉行
城代は土井大炊頭
大塩父子が
自殺したのは
三月二十七日
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