Я[大塩の乱 資料館]Я
2014.4.17

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「大塩の乱関係論文集」目次


『高井鴻山小伝』(抄)

岩崎長思編

上高井教育会 1933

◇禁転載◇

幕末史上に於ける鴻山の地位 一

管理人註
   

 天保七年に鴻山の帰国せるは、天保三年より引続きの飢饉にて、五年に は善光寺平の収穫平年の半に及ばず、六年に至り、一層甚しき不作となり、 殆ど貯蓄米を尽し、七年には気候更に不良にて、田畑の収穫なきのみなら ず。木芽伸びず、草葉色出でず、食糧悉く尽き、惨状言語に絶する有様な りしを以つて、父を助け、此救済に力を致さんがためにして、鴻山帰国後 直に倉庫を開きて大に窮民を救恤せり。勤勉と貯蓄とは高井家の家風なり しが、祖先以来かゝる場合、常に救恤を行ひたる所に奥床しき厳粛味を感 ぜざるを得ず。而も鴻山家督を継ぐ初めに当り此奉公をなす。実に鴻山の 家風を偲び、其修養を思ひ、且鴻山の前途を予言するものあり。天保七年 の飢饉は、近畿最も甚しく、此機を利をし大阪商人等の米穀買占め行はれ、 米価益昂騰して窮民となるもの多かりしを以て、大阪の与力大塩平八郎は 大に憤慨し、その蔵書迄売払ひ、救助費に当つ。併し到底独力にては如何 ともすべからざるにより、遂に町奉行に願出で救済方法を立てんことを請 ふ。然れども時日遷延して容易に其方法を立てざりしかば、天保八年二月 平八郎遂に其党を率ゐて、火を諸所に放ち、大阪の富豪を襲ひたるが、大 阪城番の大兵に破られて自刃せり。此時平八郎一書を鴻山に寄せ、鴻山は 之に返書せり。大塩の文書今伝はらざるも、其彼の騒動に関するものたる に相違なく、鴻山明治十二年七十四歳長野に高矣義塾を開ける頃「大塩の 乱に捕吏の来らざりしは不思議なり」といへり。元来鴻山が第二次遊学の ために上洛の時、大塩とは陽明学研究者として相往来し、互に知行合一、 心即理、致良知の奥義を探求し、学は実践躬行によつて全きを悟得せるな り。而して鴻山は天保七年に帰郷して我倉廩を開いて救済を行ひ、大塩は 乏しき家財什物を売払つて救民を行ふ。其救恤費の多少に差あるも、其心 根は一なり。平八郎が幕吏の態度緩慢なるの故を以て、遂に暴挙に出でし は、甞て一斎が鴻山に書して与へたる中庸の道を修得せざりしによるか。 学は中正を得ざれば、屡時務に即せず。一斎の教訓意義の深きものあり。


高井鴻山
(1806−1883)
信濃国小布施村
豪農商に生れ、
葛飾北斎の門人
 


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