発行人 向江強/編集 和田義久
第113回例会報告 はじめに (2)大坂焼亡数付 (3)塩逆記事 ○資料「山村与助」・「尼崎屋又右衛門」 ○資料「松平忠栄」・「大塩平八郎の乱」
はじめに
第113回例会(『塩逆述』からは第46回)は11月30日に開催し、初めての方1人を含め18人が参加した。最近何回か続けて初めての方が参加されていて喜ばしいのだが、1回きりという方もあって残念な気もする。
(2)大坂焼亡数付
この資料は、「大坂大火」として大塩焼けを瓦版になったものを書き写したと思われる。「浮世の有様」にも被害数の一致する資料が収録されていることからの推測である。また、会報第4号に収録した「火災状況」(大阪経済資料集成 第4巻)とも数字があう。ただ何点か異同が見受けられるので、例会で問題になった分について整理しておく。
「空蔵」は「穴蔵」の間違いであろう。穴蔵について、たまたま下記のような出久根達郎の文章に出くわしたので、参考に収録します。出典は長編時代小説『土龍』第11回(講談社のPR誌『本』の1998.11月号所収)。
「道場」とは、浄土真宗では寺院にはいたらない念仏のための集まりの場所という意味である。檄文の最後に「但し此書付小前の者へは道場坊主或医者等より篤と読み聞せ可申……」とあるが、この場合の道場坊主も浄土真宗の坊さんのことをいっているのだろう。俗人が主催する毛坊主のことかもしれない。
「秤座」については、例会で議論になったが、12月の忘年会のとき2人から「国史大辞典」と橋本万平『計測の文化史』朝日選書203 の資料をいただいた。分量がおおいので、ここでは角川日本史辞典を参考に掲載する。
つまり、大坂には神家の京都秤座の出店が大坂高麗橋1丁目の西北側、岩城呉服店の向かい側にあった。
ついでに分銅座についても紹介しておこう。
また銀座は高麗橋東詰にあった。天満組惣兵衛とあるのは、天満組惣会所の間違いであろう。
山村と尼崎については、『日本史広辞典』で調べた。
○尼崎屋又右衛門
近世の大坂で、与力の次、惣年寄の上という高い格式を与えられ、城中の用にあたった3町人の1人の当主の通称。初代又次郎吉次と甥の又左衛門清孝は徳川家康と関係が深く、資財の調達などを行った。この清孝がのちに又右衛門を名のり、以後代々継承した。近世初期には朱印船貿易や新剣先船による大和川筋の船運に従事、元禄年間には尼崎新田を開いた。文化年間から北摂津の寒天、ついで干藻の取締役をひきうけた。天満長柄町に住んだ。
「外ニ屋敷37軒」は、「鉄砲奉行御手洗伊右衛門組同心屋敷10軒、御弓奉行鈴木次左衛門同心屋敷17軒、破損奉行榊原太郎右衛門組手代屋敷10軒」の総計であろう。また、「東ヨ」は「跡部山城守組与力屋敷29軒、同組同心屋敷46軒」、「西」は「堀伊賀守組与力屋敷29軒、同組同心屋敷26軒」を意味している。
(3)塩逆記事
この資料の筆者は、「大御番衆」か「鎮目牧太」かと記載されている。編者が書き加えたのであろうか。
さて、筆者は、城の土居にて煙が立つのを確認するが、さほどのことはないと思っていた。ところが、城代が本丸に上るとの触れがあった。城近くの火災か、大火事以外には例のないことだから、不審に思っていると、東町奉行から火急の知らせがあったためらしい。具足奉行5名が御多門櫓から弓・鉄炮・甲冑などを取り出し、大手門の升形内に土俵を設け、城門外に柵を設け、城代の家来が守った。また、尼崎藩や岸和田藩が出兵、城内の大番・加番衆もそれぞれ防禦に入った様子を詳しく書いている。
「誰云となく天満より逆賊蜂起して、鳥銃を放ち段々と押来ルと風説す」と初めに書いていたが、「首逆ハ天満東組与力大塩格之助養父平八郎という者で」と、平八郎について書いている。高井山城守が大坂町奉行のとき、平八郎は耶蘇の末流京都八坂の巫女豊田貢という者を召捕、磔罪にした後、致仕して学問・武芸の師範になり、その門徒数百人もあって、大に尊敬せられた。自然と驕慢になったか、常に天下の政務を誹謗し、民の塗炭を救おう関東に下り執政家に頼って、諫め訴んとしても、告状は焚棄せられ、金言も曾て灰燼となりて詮もなき事という。門葉知己を誑惑せしめ、連署・誓詞をとり、その実ハ慶安の逆徒由井・丸橋の存念に等しく、時を竢に、近年五穀不登、市民困窮なす時節を計りて、巧言を以て東町奉行山城守に国民を振救するよう勧めたけれども、その言は容れらなかった。そこで貯置たる書籍を出して、金銀に替え、書肆等にはかりて、凡一万人に金壱朱を施し、予め人民を手なずけ、本月19日新任伊賀守利堅、同僚跡部山城守と市中巡察があって、平八郎宅の向かいの与力浅岡助之丞家にて休息する時、兼て隠謀に同心した河州般若寺村庄屋忠兵衛配下の土民等に施行すと言触し、己か宅に呼集め置き、不意を襲ひ、両司を討取るてはずと、乱の経緯を書き記している。この資料がいつ書かれたか日付がないのでわからないが、かなり正確に事態を把握しているので、乱の直後とは考えられない。後半が楽しみだが、次回に持ち越した。
なお、「尼崎松平遠江守忠栄」について、ヤスとルビが打ってあるが、タダナガと読むのが正しいと指摘があった。『尼崎地域史事典』には、以下のことが記述されていたので、酒井先生の大塩の乱の項と併せて紹介します。
見任(げんにん)を古語辞典で調べると、「現に任ぜられていること。また、その官。」とあった。