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『大塩の乱関係資料を読む会会報 第22号』


1999.2.22

発行人 向江強/編集 和田義久


目   次

第114回例会報告 
第115回例会報告 
はじめに
(3)塩逆記事(承前)

○「茨田郡次と門真三番村」和田義久
○文献情報『怪傑伝』

第114回例会報告 

 第114回例会(『塩逆述』からは第46回)は12月14日に忘年会を兼ねて開催した。「大塩の乱 参考文献」(16ペ−ジ)を配布した。

第115回例会報告 

 はじめに

 第115回例会(『塩逆述』からは第47回)は1月18日に開催、初めての方2人を含め18人が参加した。
 なお今回初めて参加された高槻の中西さんは「大塩平八郎が百匁筒を金18両で譲り受けた高槻藩士の中西斧次」の御子孫である。大塩勢が淡路町での攻防に敗れ放棄した百匁筒は3挺であった。それは、瀬田済之助が与力由比万之助の父彦之助と堺の鉄炮鍛冶芝辻長左衛門から借り出し、あと一つは平八郎が高槻藩士から譲り受けものであった。それ以外にもう一挺高槻藩士から入手していたことが明らかになったのである。これについては、岡本良一先生が『大塩研究』創刊号(1976.10) に「三島家文書について」と題して史料紹介されている。

(3)塩逆記事(承前)

 前回に続き「塩逆記事」を読む。今回は、平山助次郎の返り忠から、蜂起、淡路町の戦い、敗走、召捕までの経過と、焼亡の町々が記述されているところまで読んだ。

 平山助次郎が、密訴すべきかどうか懊悩する状況を説明するところで、「一事両端に迫りて、如何せんと推敵」とあるのを、「推敵不穏、思惟カ又思索或躊著カ」と編者は注書きしているが、二者択一を迫られているという意味合いからすれば、「推敲」の方がよいのではないかとの解説があった。

 「西奉行同心吉見九郎兵衛」は、東町奉行同心吉見九郎右衛門のことであり、「守口なる質屋三郎兵衛」は、白井孝右衛門のことで、白井家に養子に入る前は、衣摺村の政野家の三郎右衛門であった。また「此時平八郎方に居たる書生山本善太夫召捕らる」とあるのは、松本隣太夫のことである。このように人の名前については若干正確さを欠いている。なお、松本隣太夫は、大坂中船場の町医師寛悟の倅。天保元年入塾、騒乱当時14歳だった。「平八郎ニ附随ひ所々及乱妨、終ニ淡路町ニ而捕方人数ニ被打立、徒党之内弐三人被打殺候躰を見請、怖敷相成逃去候処被召捕候」と『大塩平八郎一件書留』P168に記されている。

 「子持筋付ケたる桐の紋の旗および「蝶の丸定紋」は以下の通りで、子持筋とは、太い線と細い線と平行している模様のことである。

【図】

 「同廿三日ニなりて大炊殿領地天王寺村より一里奥なる平野の荘屋より訴ニ依りて逆徒十四人搦捕、同廿四日早天に大坂に引レたり」とあるが、これは門真三番村の村民のことである。別項「茨田郡次と門真三番村」を参照。

 「又無く」は、二つとない、この上ないという意味。

 焼亡の場として、町名がたくさん書き上げられているが、若干間違いがあると思われ、議論になった。後日泉谷さんから『大坂町鑑集成』の資料が送られてきた。


 鈴木町→鈴鹿町  すずか
 反古町→友古町  ゆうこ
 倉橋町→椋橋町  くらはし
 森町  →南森町  みなみもり

●茨田郡次と門真三番村 和田義久

 茨田軍次の在村である門真三番村は下総古河藩の土井氏の知行地で、当時の藩主は土井大炊頭利位で、しかも大坂城代として大坂に赴任していた。土井氏は宝暦12年(1762)に古河に移封したが、そのときに関東領分として5万石と上方領分として2万石があった。古河藩の摂津の領地は、平野郷町・西喜連村・堀村・南嶋村・門真三番村・北大道村・宇野辺村・宇治野村・東下村・北野村・長野村」の11か村で、平野郷町には「古河藩陣屋」があった。「平野郷町『覚書』」に「大阪町御奉役様組与力大塩平八郎大坂市中所々放火致候一件」が記録されている(山口之夫「摂津国平野郷町『覚書』と大塩騒動」『大塩研究』第2号所収)。このなかに次の一節がある。

 「門真三番村軍次入牢ニ付、表門〆り置、牢守宅ヨリ出入為致、役人中時々見廻り致」。

 この記録から、先の「逆徒14人」は門真三番村の村民であることが裏づけられた。  門真三番村の茨田郡次、高橋九右衛門、その他14人(後1人追加)の乱破れた後の動向については、野口家に「大坂元御組与力大塩平八郎市中乱妨当村郡次九右衛門掛り一件手続書留」という史料に記録されている(門真市史資料集第1号『野口家文書大塩事件関係史料』。それによれば、郡次は、乱後一旦帰宅するが、瀬田済之助の父や妻子が逃げてきていたので、彼女らを星田村の親戚のもとへ案内し、そこから大和路へ向けて落としてやったあと、21日に帰宅、庄屋五郎兵衛と相談、明日22日平野御役所へ行くことを決定した。また、乱に人足として駆り出された14人は、21日大庄屋ら三人がやってきて、14人に縄を付け、22日夜明け「中屋敷」(大坂か)に入れた。翌23日平野御役所へ連れ帰り、入牢させた。高橋九右衛門は高野山へ大坂の鎮火を祈祷してもらったあと、25日平野役所へ自首したのであった。

  茨田郡次の覚悟

 なお、茨田郡次の位牌が、野崎観音の慈眼寺にあり、年1回5月4日に法 要が営まれている。郡士の曾祖父が宝暦3年に菩提寺の慈眼寺へ永代供養料 として百両余寄進していることもあってかもしれない。(『大東市史』)

【「大坂元御組与力大塩平八郎市中乱妨当村郡次九右衛門掛り一件手続書留」 省略】


文献情報

 面白い読み物を見い出したので、紹介します。大正15年発行された、『怪傑伝』という本の中の一節です。平八郎の事共多く書いてあると思ったら、ほんのチョッピリ。重蔵の屋敷で百匁砲を一発、それも重蔵のもの。重蔵と云い、一発発ったと云い、本当でしょうか。やはり当時の小説ですかね。まあ、大正の代に平八郎が取り上げられて、話題となっている事の方が面白いものです。  (満藤 久)


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