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『大塩の乱関係資料を読む会会報 第24号』


1999.4.26

発行人 向江強/編集 和田義久

◇禁転載◇

       目   次

第117回例会報告
(7)忠兵衛口書
(8)作兵衛口書
〈9)所司代達書
(11)大名蔵屋敷より之書

○私の書評3 平岩弓枝『妖怪』  
○みねとの奸通
○資料「大塩平八郎父子の判決書」
○「信貴越えル−トを救急車で下る」井形正寿           
○豊中市立公民館の「春の講座」5回 「大塩平八郎の生きた時代」ほか

第117回 例 会 報 告

   第117回例会(『塩逆述』からは第49回)は3月29に開催、18人が参加した。

(7)忠兵衛口書

(6)平八郎婢妾等口書、(7)忠兵衛口書、(8)作兵衛口書は、「大塩平八郎家内之口書」として、「大塩平八郎其外者共放火及乱妨候書類」に収録されている史料と同一である(『編年百姓一揆史料集成』第十四巻P299-301)。そこには、「昨廿七日被召捕御吟味之所、去ル十九日於大坂表大塩平八郎其外者致徒党及乱妨候始末竝平八郎片付先存居候哉御吟味有之候」とあるので、事件直後の供述書であることがわかる。そのため、事件当日の事と平八郎父子の行方の詮索が中心だったのだろう。

 この申口とは別にもう一つ「ゆう・みね、忠兵衛、作兵衛の申口」がその史料に収録されていることがわかった(前掲書P316-9)。それは「酉二月」の日付で、「爪印」ないし「印」も書かれているものである。ただ、ここからすぐに申口の内容そのものをすべてを事実と認定することはできない。現在でも、「無実の自供」をさせられるケースがあること考えれば、拷問が認められていた江戸時代、自供の信憑性は割引いて考えねばならないだろう。 また、例会で向江先生から紹介のあった『大塩平八郎一件書留』に収録されている「忠兵衛の吟味書」は、幕府が1年半かけて書き上げた「吟味書」なので、詳細に記述されているものの、そこにも事実ではない幕府の判断が混入されている可能性もある。

(8)作兵衛口書

 作兵衛は、「大工職仕居、兼て大坂御奉行様御組大塩平八郎方は得意先ニ御座候処、大工仕事有之罷越候様申来候ニ付、当正月已来被雇罷越」て(前掲「ゆう・みね、忠兵衛、作兵衛の申口」)、乱に関わることになる。忠兵衛から伊丹行きを誘われ承知し、提灯がないので、北木幡町の自分宅へ取りに帰り、伊丹へ向かった。

〈9)所司代達書

 京都町奉行から具足の借用を依頼された京都所司代が、具足奉行に渡すよう命じた達書である。

(10)大名蔵屋敷より之書

 大名蔵屋敷といっても、特定するものが本文に少しも出てこない。また内容にしても、特に注意を引くような事柄が記載されてもいない。


私の書評3
平岩弓枝『 妖 怪 』 和田義久

 「大塩と申すは能吏には違いないが、物事の裏を読む力がない。陽明学を学び、多くの門弟を抱えていたようだが、所詮、井中の蛙か」 もともと不平不満の徒であったと大学頭は苦が苦がしそうにいった。 「昔のことじゃが、或る人を介して、与力を辞め、然るべき役職への道を 求めたいというて来たことがある」(P154)

 平岩弓枝は、林述斎が子息鳥居耀蔵に大塩の決起を知って、大塩について語り聞かせる場面をこのように描いている。

 この作品は『文藝春秋』平成7年10月号から10年5月号に連載され、11年1月に単行本として出版された。当然、「建議書」も参考にされたようで、不正無尽についても記述されている。しかし、「建議書」が林述斎宛であること、林述斎の借用証文については一切触れられていない。小説に史実を突きつけ、おかしいとの指摘は野暮ということかもしれないが、大塩と林述斎の関係を考える上で、欠かせない事実である。

 これは、大塩平八郎から林述斎宛に出された書簡である。先年用立てた金子の借用証文をお返ししますとあり、実際に証文が添えられている。金額は1000両。この証文を返却するというのである。しかも、これが、林述斎が不正無尽に手を出そうとした際に、大塩が止めさせ、商人を通じて用立てたとするならば、大塩平八郎と林述斎の関係は、平岩が描くような評価は生まれてこなかったであろう。逆にこういう関係ゆえにか、「すでに大塩を敬遠し、実子の鳥居耀蔵にも危険な人物と吹き込んでいる」(菊池道人『大塩平八郎起つ』)としたら、林述斎を頼ったのは大塩の誤算であったかもしれない。

 この小説が、従来の「鳥居耀蔵悪人説」(例えば海音寺潮五郎『悪人列人』四、松岡英夫『鳥居耀蔵』)を覆す画期的な作品であっただけに、大塩と林述斎の関係をもっと掘り下げて欲しかった。鳥居が「大塩の乱」の判決文の作成にどの程度かかわったのか詳らかにしないが、あるいは大塩と父述斎との関係を知らなかったのかもしれない。興味あるところである。

 ○みねとの奸通  さて、鳥居耀蔵が「大塩の乱の判決書」の作成に関わったとして、先の海音寺潮五郎や松岡英夫は、その判決書冒頭の「大塩がみねを自分の妾にした」ことについて、その不当性を糺しながら、鳥居のデッチ上げとして糾弾している。しかし、鳥居のために弁解するならば、この話は、実はゆう・みね、忠兵衛の口書や吉見九郎右衛門の急訴状に出てくるのである。鳥居の創作ではなかった。

 そこで平八郎と格之助妻みねについて、この際出典史料を整理し、議論の前提を明確にしておく必要を痛感し、ここに紹介する。なお、私の知らない史料があると思うので、御存じの方は御教示いただきたい。


まず、(1)「ゆう・ミねの酉2月の吟味書」では、「みね儀は前書忠兵衛娘ニて、十一才之節より平八郎方へ下女奉公ニ罷越、去々未年六月頃平八郎妾ニ相成、去申十二月忰弓太郎出生いたし養育罷在候処」とある。みねは天保8年17歳なので、11歳というと天保2年、この年大塩家に女中奉公に来て、天保6年に平八郎の妾になり、7年に弓太郎を出産したことになる。

 同史料の「忠兵衛の酉2月の吟味書」でも、忠兵衛は次のように語っている。「右みね儀は拾壱才之節より大塩平八郎方へ奉公ニ罷出、近頃同人妾ニ相成、男子壱人出生仕弓太郎と名乗」った。 では(2)の吉見九郎右衛門の急訴状ではどうなっているか。「以前に違背有間即悴へ可娶積の養娘を自分妾にいたし男子出産仕候に付、殊の外相歓び、此上にて弥〃一儀決心の旨私へも相咄、屹と有間敷抔申聞候、俗人にも相劣り候不行跡の儀」と訴えている。ここでは、格之助に娶らすつもりで養っていた娘を自分の妾にしたとなっている。江戸時代に武家奉公に来ていた娘が主人の妾になるケ−スはごく普通にある話であるが、息子に娶らすつもりの娘に手を出したとあれば、話は違う。道徳的にも問題であろう。

 では(3)忠兵衛の判決ではどうなっているか。現代訳にしてみた。「天保7年12月、私が平八郎に面会したとき、『みねは格之助に娶らすと約束をしていたけれど、勘弁してほしいが、格之助には宮脇志摩娘いくを娶らしたく貰い受け、みねは天保5年以来自分平八郎の妾にし、このたび男子も出生いたした』と聞かされ、兼ねての言行に似合わず、俗人にも劣る振る舞いと存じた。しかし、平八郎の権威を恐れ、かれこれの挨拶もせず、そのままになっていた」。みねが平八郎の妾になった年が、(1)では「去々未年」であるのに対し、(3)では「去ル午年」となっており、1年の異同がある。

(4)の大塩平八郎の判決では次のとおりである。「平八郎ハ表ニ謹言之行状を餝、文武忠孝之道を講じなから、内実養子格之助江可嫁合約束ニ而養置候摂津般若寺村忠兵衛娘みねと及奸通」とあり、(3)と全く同じ言い方で、格之助に娶らすつもりの娘と「奸通」したと、断罪している。単に下女を妾にしたのではなく、息子の嫁にと考えていた娘を自分の妾にしたのでもなく、あたかも格之助との縁組みがすみ、妻である立場の女性と関係ができたことは、「奸通」にあたるとして、平八郎の「俗人にも相劣り候不行跡」を際立たせた書き方をしている。

 このように、忠兵衛や平八郎の吟味書は、あらゆる史料を突き合わせて、作成されるため、詳細を極め、平八郎のみねに対する行為は人道上ゆるせないとして、乱そのものを否定するところまでもっていこうとしている。

 そういう意味でも、「塩逆述」だけでなく、「吟味書」についても、すべての事柄を事実と信用することはできない。内容如何によっては、裁く側の論理を貫徹させるため、捏造されている可能性もある。平八郎とみねの関係は事実か否か、大きな問題だ。

 なお、参考に松岡英夫の大塩平八郎父子の判決書の現代訳を引用しておく。

(省略)

信貴越えル−トを救急車で下る 井形正寿

 4月17日、森鴎外「大塩平八郎信貴越えルート」を歩く歴史検証に、私も敢然と挑戦した。ところが、うっかり乗換駅を素通りして一駅向こうの高安駅まで乗り越した。どうも幸先がわるい。

 信貴山口駅からケーブルにも乗らず勇敢に上り一方の険しい坂道を登った。
鴎外によると大塩父子は疲労と発熱の瀬田済之助とは八尾の恩智で別れているが、果たして高安山気象レーダー観測所ルートをたどったのであろうか。昼食のあと、30分ほどで野鳥の声を聞きながら信貴山の寺域に入った。

 朝護孫子寺の本堂回廊から町並みが望見できたが、当日は薄曇りでどこかよくわからない。

 鴎外は信貴越えのなかで「平八郎は格之助の遅れ勝になるのを叱り励まして、二十二日の午後に大和の境に入つた。それから日暮に南畑で格之助に色々な物を買はせて、身なりを整へて、駅のはづれにある寺に這入つた。暫くすると出て来て、「お前も頭を剃るのだ」と云つた。格之助は別に驚きもせず、連れられて這入つた。親子が僧形になつて、麻の衣を着て寺を出たのは、二十三日の明六つ頃であった。」とある。鴎外は南畑の寺といっているが、信貴山の宿坊・塔頭を想い浮かべながらアレンジしたのではなかろうか。

 信貴生駒スカイラインに続く本堂高井田線を南下、どっくり池・信貴山のどか村で小休息したが、そのあとがこわいことになる。

 これからは坂ばかりですと声がかかる。視界は悪いが、確かに大阪の南の方の町並みが望見できる。どうも大塩父子もこの道をたどったように思えてきた。おそらく大塩父子は大坂に引き返す時、恩智村に一直線のこのルートを瀬田済之助の身のことを案じながら歩いたのではなかろうか。

 とにかく急坂だ。1時間ほど歩いたころから、私は一行から遅れ出した。変形性脊髄症といわれているので、体が後ろへ後ろへと傾き、その上おなかの中にガスが発生し、腹がはった。いまにも後ろへ倒れそうになる。足がからむ。みんなが待ってくれている場所へ着くなり、どっかりと倒れ込んでしまった。恩智駅へはあと30分のところだ。

 ここから大変な事態になった。タクシーを呼ぼうということになったが、タクシーは来てくれそうもない。どうにか連絡がついて救急車を頼んでいただいた。岩の上に仰向けに寝て待っていると、一瀬さんが盛んに気を使って声をかけ、マッサージをして下さる。10分、20分いまにも歩けるほどに回復してきたが、タンカを持って上ってきた救急隊員と一行のみなさんに担がれて救急車の人となった。生まれて初めて救急車のお世話になり、近鉄八尾駅近くの病院に運ばれた。

 私が倒れたところは、恩智神社の近くだが、岡田播陽流にいうと、瀬田済之助の霊魂が私を呼んだのだろうか。救急車のなかでずっとそのように考えていた。

 病院で診察を受け、注射一本も打たれずに無事病院から解放された。同行のみなさんに大変なご迷惑をかけることとなった。病院まで付き添って下さった一瀬さん、和田さんに厚く感謝する。 瀬田済之助が最後をとげた恩智の現場検証にもう一度行きたい。


豊中市立公民館の「春の講座」
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回│月日│    テーマ                      │    講 師
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1│5/17│大塩平八郎の生きた時代−江戸と大坂−│  向江 強
2│5/24│檄文と大塩の乱                      │  向江 強 
3│5/31│異色の門人伊丹の馬方と豊中地域      │  酒井 一
4│6/7 │大塩事件の子どもと女たち            │  酒井 一
5│6/14│天保8年2月19日決起とその前後      │  井形正寿
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  時間 14:00〜15:30   場所 庄内公民館  三和町3-2-1
  申込  定員50名を満たない場合、豊中市民外でも申込可06(6334)1251

編集後記 4月16日の大阪城天主閣の見学、17日の信貴越えルートを歩くと読む会の行事が続けてありました。参加できなかった人はまたの機会に。
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