発行人 向江強/編集 和田義久
目 次
第116回例会報告
(3)塩逆記事(承前)
(4)江府御触書」
(5)小野氏書
(6)平八郎婢妾等口書
○資料「人相書」
○案内 「森鴎外「大塩平八郎」の信貴越えルートを歩く」
第116回例会(『塩逆述』からは第48回)は2月22に開催、20人が参加した。
(3)塩逆記事(承前)
「善庵筋」は谷町筋から西へ一つ目の南北に走る筋である。以前に「善庵筋」か「善安筋」かで議論になった。「大井岩五郎」は大井岩治郎こと正一郎、「山本善太夫」は松本隣太夫、「大塩権八郎」は大塩権九郎こと宮脇志摩のことである。
松本隣太夫は、存命なら引廻の上獄門の判決だが、吟味中病死(牢死)している。齢14歳で、縄目に逢いながら大言を発し、役人を罵詈して少しも屈伏せず、事成らざるを嘆いたという話は初見ということであった。
宮脇志摩については、特に詳しく記述されているが、平八郎との関係が伯父と甥の続柄になっているが、正しくは志摩が叔父、平八郎甥の関係である。なお、「西宮大神宮社家」について、『大塩平八郎一件書留』でも「西宮神主」となっている。
「天満東組」「天満組」という言い方は、奉行所があったところではなく、大坂町奉行所の与力・同心などが主に天満に住んでいたからそう呼んだのではないか。大坂城付き玉造組同心と対比して大坂町奉行所の同心をいう場合に「天満組」といったのかもしれない。
(4)江府御触書
乱の後、大塩平八郎・大塩格之助・瀬田済之助・渡辺良左衛門・近藤梶五郎・庄司義左衛門の6人の人相書が触れ出されたが(『塩逆述』巻之一)、4月段階ではすでに自滅ないし召捕になっている。あと大井正一郎と河合郷右衛門の2人の行方が不明なので、油断なく捜せとの触れ書きである。
正一郎は深尾才次郎と新兵衛と能登まで逃げ延びたが、金子借用のため新兵衛と京都へ舞い戻って召し捕えられ、4月2日大坂へ引き渡された。8月14日に牢死。河合郷右衛門は、正月27日三男謹之助を連れ出奔、未だその後の足取りは不明である。
なお、二人の人相書が『編年百姓一揆史料集成』第十四巻P180に掲載されているので、紹介します。
(5)小野氏書
この書簡は、「巡検。跡部様・此方旦那同道。、罷越支度致居候処」とあるので、小野寺氏は大坂西町奉行堀伊賀守の家臣と思われる。平山助次郎が東町奉行の跡部山城守へ密訴したのに対し、吉見英太郎と河合八十次郎は西町奉行堀伊賀守へ密訴しているので、「当屋敷へ罷越」の文面からも堀伊賀守の家中のものに間違いないだろう。なお『編年百姓一揆史料集成』第十四巻P230〜1に「堀伊賀守家士小野寺左橘書状之写」として同史料が掲載されている。
「大塩と徒党致」したメンバーに、「山田平三郎」の名があがっているが、それらしき人物に思い至らない。何かの間違いだろう。
末尾の一節は例会で指摘があったように、国会図書館版では「猶期後喜之時候。恐々謹言」となっていた。「後喜」を辞典で調べると、下記の通り記されていた。
忠兵衛が作兵衛を荷物持ちに、ゆう・みね・弓太郎・いくの4人を伊丹から逃げ伸びようとして、旅先の京都で捕まった。その状況の供述書である。
ゆうは、曽根崎新地の茶屋の娘で本名を「ひろ」といい、後に般若寺村百姓忠兵衛の妹として平八郎の妾に迎えられた。江戸時代武士が農工商身分の女性を妻に迎えるとき、一般に身分を憚って妾と称したが、妾が事実上の妻であることが多い。ゆうも妾とされているが、平八郎の本妻であった。
ゆうの剃髪について「弓削新左衛門一件之節、剃髪致候様平八郎申聞候ニ付、為菩提剃髪仕候旨申之」とある。今までの理解は「この女は文政十二年三月三十二歳の時に薙髪している。一般の婦女子が長かれと祈る黒髪を絶つには、余程な理由がなくてはならぬ。(中略)平八郎が弓削一件に必死を極めた時に、ゆうは殊勝にも薙髪して主人の足手纏いにならぬ決心をしたものと思われる。」という幸田成友の見解に代表されていた。ここでは、「為菩提」とあるのは、詰腹を切らせた弓削新右衛門の菩提を弔うと理解してよいのだろうか。また、ゆうの剃髪が文字通り頭を剃ったのか、切髪にしたのかで議論がわかれた。平八郎の生死にかかわらず、夫亡きあと大塩家の菩提を守るため切髪にして、その覚悟を示したのであろうか。因に切髪を辞典で調べると、下記の通りであった。
出典「讀売新聞」昭和62年10月13日夕刊
| 森鴎外「大塩平八郎」の信貴越えルートを歩く |
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