Я[大塩の乱 資料館]Я
2000.10.9訂正

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『大塩の乱関係資料を読む会会報 第26号』


1999.6.28

発行人 向江強/編集 和田義久

◇禁転載◇

       目   次

第119回例会報告
(14)二月廿一日大坂与力ノ書
(15)残乱ノ書三月四日届

『塩逆述』巻之六(下)
(1)小出信州届伺書
(2)分部若州届

○「神峯山寺と志村周次」井形 正寿
○「清太夫について」 満藤 久 
○99年歴史セミナー 大塩平八郎を学ぶ

第119回 例会報告

  第119回例会(『塩逆述』からは第51回)は5月24日に開催、19人が参加した。今回で『塩逆述』巻之六の上を読み終え、巻之六の下に進んだ。

 (14)二月廿一日大坂与力ノ書

 この資料は、玉造与力の書で、山城守から要請を受け、19日に玉造与力5人・同心20人が出兵し、20日は守口・吹田へ派遣され、21日に帰宅した様子を記している。尤も幸田成友は「二十日玉造口与力八田又兵衛、高橋佐左衛門は同心二十二名を引き連れ、尼崎の兵と共に守口町に赴き、それから路を転じて吹田に向い、志摩の家を囲んだところ」と書いている。与力の数が違うが、あるいは筆者は八田又兵衛、高橋佐左衛門のどちらかかもしれない。ここで、興味があるのは、淡路町での戦闘で、「大塩組之者平士二人、士分と覚敷者壱人討留」とあって、死者を3人としていることだ。

 (15) 残乱ノ書三月四日届

 書き手がはっきりしないので、信憑性に欠けるが、2、3点書いておく。 「跡部様家来熊野次郎三郎と申者駆込、首を切落、直ニ鎗先へ貫キ御馬脇ニ扣居候」とあるが、梅田源右衛門の首を切り落とした人物の名前が明らかになったのは初めてである。

 また、「灰炭をとき壱人ツヽ目印ニ顔を塗る」とあるが、これも初めて聞く内容だ。講釈師見てきたようなうそをいいの類いではなかろうか。はたまた事実なのだろうか。

 前回の例会で問題になって「はきく」は、国立国会図書館版でみると、「はきゝ」とあって、「く」は「ゝ」の読み間違いと思われる。「はきき」は古語辞典では「羽利」と書き、羽振りのきくことと説明してあった。ここでは、平八郎が奉行所でも羽振りがよかったと解釈すべきであろう。

『塩逆述』巻之六(下)

(1)小出信州届伺書

 これは、園部藩小出信濃守英発ふさおきの家来が、例年のとおり参覲交代に参府してよいか京都所司代に伺ったところ、「勝手次第可被致参府候」との附札が下りたので、小出信濃守がその旨幕府へ届け出たものである。

(2)分部若州届

 分部若狭守とは、大溝藩の11代藩主光貞みつさだである。領民に大塩一党の志村周次がいたための届けである。  それによると、出坂中の周次が病気になったとの飛脚便の報せで、母と妻が2月16日に小川村を出立、19日に大坂に着いた。しかし、出火騒ぎのため懇意の守口幸右衛門を訪ねたところ、病死と聞き、そのまま帰村した。


 幸田成友は、志村周次について次のように述べている。「志村善継 字は周次(周二ともあり)、通称力之助。江州小川村の医師で、天保3年中斎が藤樹書院を訪問したとき、周次は書院の世話方をしていた。その後時々出阪しては大塩邸に奇寓し、中斎の手許または勝手向の用を足していたという」(『大塩平八郎』)。しかし、志村の入門の時期がはっきりしない。そこで駒井正三は、天保4年11月平八郎が藤樹書院修繕の資として15金を寄付した際の「覚」から、志村周次の洗心洞入門を「天保4年9月藤樹書院で講義し、周次宅に宿泊した節、入門したのであろう」と推察されている(「志村周次その周辺と洗心洞入門費用」『大塩研究』第28号)。

 では、志村周次の最後はどうであったのだろうか。白井孝昌は「大塩事件と藤樹書院」(『大塩研究』創刊号)という論文で『浮世の有様』と『実録彙編』を比較検討し、「討取候名前不知塩詰之首三級は取捨」というから、その内の一つは梅田源左衛門で、あとは志村周次と衣摺村の八左衛門ではないかとしている。

 また、先の駒井正三も、「志村周次淡路町。、相捕、周次首鎗に突さし東奉行持帰し」という白井家文書が最も信頼できる資料として、周次は淡路町にて捕らえられたものと推察されている。ただ、首を鎗に突き刺されたのはのは、梅田源左衛門ということになっているので、この資料が真実を伝えているとすれば、2人となる。

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神峯山寺と志村周次 井形 正寿

 『塩逆述』巻之六上34丁に出て来る神峯山は神峯山寺(かぶさんじ)のことで、高槻寺原(JR高槻駅より北東8kmの山間)にあります。

 神峯山寺が大塩事件に関連して探索された一件については、高槻市役所広報広聴室が刊行(1994 年) した『新いにしえ物語』のなかに「大塩事件探索一件」(P137 〜168)に記述されています。京都所司代の厳命で雑色衆や京都町奉行所の与力・同心が探索に振り回されることが書かれています。

 『塩逆述』巻之六下1丁の志村周次については、『実録彙編』(国立国会図書館蔵)では志村に関連するものは出て来ないようです。『大塩研究』28号に駒井正三氏が「志村周次その周辺と洗心洞入門費用」のなかで、周次の最後を小川文書などの史料から書かれているのは注目に値します。小川文書の調査によってその後発見された史料をうまく活用されて研究を進められれば志村周次の未知のことが発見されるのではないかと思っています。 志村周次についての資料は、『大塩平八郎一件書留』のP41,43に白井孝右衛門、孝右衛門妻たつの吟味伺のなかに出ています。『浪華異聞』(大阪府立中之島図書館蔵)天の巻52丁〜にも出ています。

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大塩の乱関係資料を読む会結成10周年記念   
清太夫について 満藤 久

 大塩関係に、清太夫という人物が二人出てくる。

 西田清太夫と橋本清太夫である。此の頃は太夫という文字を使うのが流行ったのであろうか。私の先祖にも、茂太夫(文化元年亡1804)・甚太夫(文化十一年亡1814)、古いのが元禄二己巳十一月(1689)茂太夫と云うのがある。各々生年不知。少し横道にそれた。

 大塩平八郎後素の養子となった(文政九年(1826))格之助の実家は西田家で、青太夫は兄である。兄の子に千之丞(分家)、寿三郎(後継)とある。西田清太夫については余り語られていないが、乱について何のとがめもなく、乱後東組与力を務めた。一応取調べは受けているが、無構(仕置之沙汰不及)とある。(相蘇一弘「大塩の乱の関係者一覧」『大阪市立博物館研究紀要』第26冊)。

 兄弟でありながら何事も知らなかったとは不届者とばかりよくもおとがめを受けなかったものである。(先年西田家の墓が八尾市内の本照寺で見つかっている)。

 今一人の橋本清太夫については、清太夫に宛てた平八郎後素の手紙がある。

 橋本清太夫は、文政四年(1821)までは、源右衛門と称し、同五年頃から清太夫に改名した。清太夫の子、磯五郎・文三郎共に中斎が洗心洞開塾の頃入門して学んだ。

中斎も懇親であったらしい。尤も清太夫の弟の橋本恒輔は東組町奉行跡部山城守に属していた関係からであろう。 清太夫が主家竹中氏から謹慎を命ぜられていた文政十一年(1828)頃の手記の中に、

 こうした中で、磯五郎の老中駕籠訴事件が天保四年(1833)に起きるのである。

 此の事件は、井内左門の謀略から端を発するものであるが、磯五郎が駕籠訴を決意するまでには、師大塩平八郎の示唆によるものが多かったのではないか、と(吹田誌稿ヨリ)。


                      (太伴)
  橋本(源右衛門)┌  磯五郎  ―  ○ ― ○ ― 義敏
  ┌  清太夫  ──┼  文三郎
  │              └  意琴
  └  恒輔            │
                      │
  日向延岡藩士        ├― 清一郎
  ┌  三宅善兵衛      │
  │                    
  └────────  清太夫正芳(田中佐織・号陽雲)


●99年歴史セミナー● 大塩平八郎を学ぶ
          
第1回7月10日(土)ドキュメント大塩の乱和田義久氏(本会委員)
第2回8月7日く土)洗心洞詩文より 解説 向江強氏(本会副会長)
吟詠 前田敏幸氏(関西吟詩文化協会〉
第3回9月4日(土)江戸と大坂 渡辺忠司氏(大阪市史料調査会主任調査員)
第4回10月2日〈土)奉行・与カ・同心曽根ひろみ氏〈神戸大学教授)
策5回11月6日(土)ここが知りたい大塩の乱酒井一氏(本会会長、天理大〉


   会 場  大阪府数育会館(たかつガーデン)大阪市天王寺区東高津町7−11
               近鉄上本町駅北徒歩3分、地下鉄谷町九丁目駅東北徒歩7分
   時  間  午後2時〜4時  
   受講料   1回に付1,000 円(5回申し込みの場合は4000円)

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