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『大塩の乱関係資料を読む会会報 第27号』


1999.7.26

発行人 向江強/編集 和田義久

◇禁転載◇

       目   次

第120回例会報告 
(3)松平甲州届
(4)御城代始ノ達書
(5)松平豆州達
(6)御城代江  御達
(7)中山氏返書

○ 論文紹介・永嶺信孝「天保期における尼崎藩大坂留守居」
○99年歴史セミナ−・第2回「洗心洞詩文より」
○「塩逆述」の輪読会に参加して

第120回例会報告 

 第120回例会(『塩逆述』からは第52回)は6月28日に開催、20人が参加、巻之六下の3丁から11丁まで進んだ。

(3)松平甲州届

 これは、郡山藩からの、柏岡富三郎(般若寺村柏岡伝七三男)召し取りの届けである。『大塩平八郎一件書留』では、富三郎は、平八郎宅で異変があればすぐに駆けつけるよう言い付けられており、2月19日の当日異変に気付き駆けつけるが、恐ろしくなって逃げ去った。だが、「罪科難遁、身隠いたし候汪O有之間敷存、帯居候刀ハ途中江 取捨、一旦帰宅之上其以前汢ヘ州野崎村慈眼寺境内観音堂ニ妹しつ・伯母尼知黙参籠いたし居候間、前書之次第咄居候処被召捕」た。

 しかし、郡山藩の届けでは、捕まったのは親太(富三郎のことか)・しつ・知黙のほか、弟の勝次郎・篠村木挽嘉兵衛・連れの枚方村みつの計6人で、しかも大和へ逃げる途中谷田村辺りで捕まったことになっている。こちらの方が史実のような気がする。なお野崎村は郡山藩領で、通報した慈眼寺住職は当時「俊棟」であった。  郡山藩 享保9年(1724)柳沢吉保の子吉里が甲斐国府中から入封、以後信鴻、保光・保泰・保興・保申と6代にわたる。15万1200石余。藩領は大和国のほか河内・近江両国に分散。柳沢吉保は5代将軍綱吉の側近として活躍、元禄14年(1701)に松平姓を与えられる。(『日本史広辞典』)

 (4)御城代始ノ達書

 最初の3通は、老中からの達しと思われるが、大坂城代土井大炊頭・玉造口定番遠藤但馬守・京橋口定番米倉丹後守に対するお褒めの達しで、4月1日に発せられた。また、跡部・堀の両奉行にもお褒めの言葉があった。この違いは大名と御家人との差ということであった。なお、京橋口定番米倉丹後守は、2月19日の事件当日はまだ大坂には来ていなかった。

 (5)松平豆州達

 これも、先の資料と同様、京都所司代の松平伊豆守信順へのお褒めの達しである。京都町奉行と奈良奉行がゆうや大井正一郎らを召捕ったことに対するお褒めなのであろう。

 (6)御城代江 御達

 大塩平八郎ら6人の人相書を触れ回したが、その後瀬田・渡辺・近藤は自殺、庄司は召捕りになったので、平八郎父子と大井・河合の人相書を届けるように指示を出す。しかし、平八郎父子が自滅したので、4人の触書案は返却するとの老中からの達しである。後、大井・河合の人相書が触れ出される。

 (7)中山氏返書

 中山貞之助は、瀬田・小泉を召捕るよう命じられた5人の内の一人で、脇差を取り上げる役目の人であった。「私義脇差取上候役目ニ付、平常御用談申候通宜致挨拶伺透間、脇差取上相図之声を懸候得ハ、四人之者とも飛懸り候得共、曲者共迯出詰所前迄追欠、何卒可生捕と存候得共、未タ早朝ニ而薄闇頃故可取迯も難計、打寄無拠切捨申候、瀬田ハ其間ニ土塀を乗越迯去申候」とさすがに当事者だけに具体的な内容になっている。中山貞之助が跡部山城守の家来か、東町奉行の与力・同心か議論になったが、「大坂御役録」には名前がでてこないので、跡部山城守の家来と考えられる。

 淡路町の交戦の状況を「賊の死骸山の如くニ驚キ、集勢之者共忽散乱致、途を失ひ居候処を切伏・突殺」と書いているいるが、編者もいうように夸誕( こたん) なのであろう。「夸誕」とは大げさに言いたてること。見えをはって、ぎょうさんに誇ること(『広辞苑』)。その次の「私義も百姓切捨、侍分之者弍人打取、首級を上ケ鎗之先ニ貫キ奉行所迄持参仕候」も眉唾物だが、大塩一党側に3人の死者がでたとの認識は間違いないだろう。

 また、「右及乱妨候者名前知レ候者荒増」として37名の名前を上げているが、知られざる名前が少なからずあった。坂平左衛門、同半次郎、市田次郎兵衛、川邊岩助などである。

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論文紹介
永嶺信孝 「 天保期における尼崎藩大坂留守居」
(尼崎市立地域研究史料館『地域史研究』28巻3号1999年5月)

これは、大坂における尼崎藩の留守居の位置づけと天保飢饉における働きを明らかにしたものである。大塩の乱での尼崎藩の留守居の動向について若干触れられているので紹介する。

 (1)まず、大坂の重要度から、幕府は、「尼崎藩が岸和田藩と共に、大坂城防衛の重任を帯び、そのため両藩参勤は交互に行い、必ず一方の藩主帰城を待って、改めて参勤の途につく」ことになっていたという。尼崎藩主の参府は子寅辰午申戌の年6月、岸和田藩主の参府は、丑卯巳未酉亥の年6月であった。すなわち、天保7年(申)6月には、尼崎藩主が参府、岸和田藩主は御暇をもらって岸和田に帰っていた。註(1)

 そこで、大塩の乱が起こった天保8年2月19日、在所にいたのは岸和田藩主ということになる。そこで岸和田藩の史料を当たると、藩主岡部長和は天保7年7月に岸和田城に帰り、翌8年7月江戸に参府していることが明らかになった。


 乱勃発後、岡部長和はどうしたか。史料ではまだ確認していないが、岩城氏は「岸和田藩は在国中の藩主自ら大坂に出兵するが、大坂では大坂目付・町奉行とともに対応を検討し、町奉行所の与力・同心を引き連れ市中の警衛にあたっている」としている(史料は国立公文書館蔵『大坂乱妨届書』)。

 (2)事件勃発後、東町奉行の指図で、尼崎藩大坂留守居稲垣左近右衛門は在坂の蔵屋敷へ廻文を送っている。確認されているのは、岡山藩中之島蔵屋敷や薩摩藩蔵屋敷宛の廻文などである。事件後、大塩一党の残党狩りや召捕りの通達なども尼崎藩大坂留守居からの廻文で知らされた。

 (3)また、跡部山城守は、大塩の乱後すぐに、尼崎藩留守居の名にて、払米促進の廻状を出させた。しかし、7年が凶作だったため廻米の実績は上がらなかった。

 (4)物価高騰に対する政策として跡部は「銭買い」を考えついた。「銭買い」とは、市中から銭を買い集め銭の相場を引き上げ、銭相場が上がれば自然に物価は下がり、庶民の暮らしは楽になるという単純な発想である。銭買いは7月から実行に移されるが、各藩にはやはり尼崎藩留守居の名にて「御頼」している。実際の効果はなかったようである。

 以上4点からもわかるように尼崎藩留守居は、大坂町奉行跡部山城守と緊密な関係を結んでていたのである。

 さて、大塩の乱に際して近隣の大名がどのように動員されたかは、内田九州男の「大塩事件と大阪城代」(『大塩研究』第13号)の論考以降、さほど進んでいなかった。しかし、永嶺や岩城らの研究によって、その命令系統が少し明らかにされた。

(和)
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99年歴史セミナ−
第2回「洗心洞詩文より」 
      解説 向江強氏                    
      詩吟  前田敏幸氏( 関西詩吟文化協会)
   と  き  8月7日(土)2時〜4時      
   ところ  公立学校共済組合  ホテルアウィーナ大阪
                   天王寺区石ケ辻町19-12  
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「塩逆述」の輪読会に参加して

 私がこの読む会に参画させて頂いた理由は2つあります・その一つは、大塩の乱と称される事件に関心があったことと、もう一つは我が家に伝わる古文書※の解読の一助ともなればとの思いで、第百回目から参加した新参です。[なんとか蛇におじずの例えの通り大塩事件を早速紙芝居に仕立ててご笑覧頂きました]

 ※前述の古文書とは、天正年間岸和田城主であり、わが祖先と覚しき松浦肥前守が家臣のだまし打ちによって遠矢に倒れる云々なる「和泉国三拾六人ノ郷侍衆覚 并出仕之侍又没落之次第記」です.和泉市立図書館にも写しが所蔵されています。

 前置きが長くなりましたが、大塩関係の文書によれぱ、大塩の乱以前に岸和田(小)藩と御三家の一つである紀州(大)藩との境界争いに際し、大塩平八郎が紀州と徳川の関係をモノトモセズ公正に裁きをしだ記録がある。

 にも拘らず、後年の乱に際し岡部藩が奉行方に味方して乱の鎮圧応援に馳せ参じた点にいささか抵抗を感じていました.当時の幕政下での徳川の力によるものか?それとも形式的な出兵だったのかを解き明かぜるかも知れない資料を発見しましだのでご紹介しますそれは、五万三千石岸和田藩記/近畿公論社刊[昭和50年]倹約時代の大塩乱出兵[p109〜]です。

それを要約すると、以下のとおり。

岡部長和の天保八年二月大坂で起こった大塩平八郎の乱で、出兵は大坂城代の命令で二月十九日に二百五十人の一番手と、これにつづく二番手であった。一番手は二十日正午ごろ大坂城につき、二番手は同日午後八時頃天下茶屋に到着して城代の指示を待った。

この時の城代は土井大炊頭利位、東町奉行は老中水野忠邦の実弟跡部山城守良弼で[中略]この騒動は参加者三百人ほどで、大坂の町の五分の一、約二万戸ほどを焼いたが半日で鎮圧されている.岸和田藩が到着しだ頃は、もうあとのまつりであった。大塩の決起は十九日である。

この出兵を神速果敢とほめそやし、岸和田城の矢倉から大坂の火災を望見した隠居長慎の先見性をウンヌンしている郷土史もある。それはともかく、の乱が人心に及ぽしだ衝撃ははかりしれないものがあり、このときの檄文は泉州各地の家にも保存された。岸和田藩の勤員は五百人ほどだっだろう。   無量図書館 松浦 木遊


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