Я[大塩の乱 資料館]Я
2000.7.18

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「遊芸園隨筆(抄)」

川路聖謨

『日本随筆大成 5』(吉川弘文館 1927) より


◇禁転載◇

○二月二十四日、林大学頭方に参りとひ計ることのありて、夕かた迄居たりしに、大学頭申せしは、大阪町与力の隠居大塩平八郎謀反いたせし由、彼地の町奉行跡部山城守よりして、内々御勘定奉行矢部駿河守方へ申参りたり。是は山城守同心平山助次郎義、平八郎巧候趣、山城守え同十七日申聞候に付、同人も覚悟いたし、其段駿河守之申越候旨にて、同人より大学頭え物語候由也。平八郎は王陽明派の学者にて、謀叛の念などあるべくもおもはれず。よしあればとて狂人の事故、何程の事かあるべきなど申候て其日は帰りぬ。同廿六日登城せしに、同日御城へ大阪よりの飛脚到来いたし、大塩平八郎宅より出火いたし、大筒火矢等を以て焼立候に付、取鎭方夫々手配有之候旨申参り候由にて、御老中方も退出、七ツ半時過に相成、其節駿河守物語に、早大阪は落城し、堀伊賀守は京都へ迯参り、跡部山城守は百目筒に当り首微塵に砕候由、事々敷物語大造の事に候得共、某存ぜしは平八郎者浪人ものにて、其上白昼に自焼いたし取懸候にて、最早大事之難成事は明也。当時昇平之御時故、人武事不鍛練大造に申立候事不足信候間、恐懼之御取計有之、国体に拘候ては以之外之由等、内々水野越前守殿へ申せし旨ありしに、彼人も心附も候はゞ必可申上旨等、具に被仰聞たり。是は文化のはじめ魯西亜の賊船カラフトにて乱妨の節、今にも東海より上陸いたし陸奥迄切取候様に、都下のものは申せし故、実に至て纔の事にて、彼平家の人々鳥の羽音に驚きたるためしもあれば、決して治世肉食の人のみだりなること申せしを受可からざること也。内々決し居人々の驚きたる様取沙汰之様子等笑ひおもひしに、果て其後の注進にて二十人余りのもの共騒立、飢民共大勢引連出候得共、跡部山城守に出合、忽に敗亡せしよし分り候也。

○廿九日、加賀守殿え参り、大阪のこと容易に入御聴候はゞ、御病気に障り不可然旨申上候処、彼地蔵屋敷の家来より注進の旨もありて、御聴に達せしよし承る。

○加賀守殿三月九日頃之由、内実卒去、同十九日夜卒去之旨仰出候 右に付為悔参る。(後略)


○四月八日、(後略)

○大塩平八郎去る廿七日大坂油懸町美濃屋五郎兵衛 *1宅にて、子格之助一同自害いたし焼死之旨届来る。面体等焼爛候由疑敷事也。


管理人註
*1 美吉屋五郎兵衛
参考
吉川弘文館『日本随筆大成 第1期23』 1976「遊芸園隨筆」解題
川田貞夫『川路聖謨』吉川弘文館 1997
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