Я[大塩の乱 資料館]Я
2011.6.26

玄関へ

大塩の乱関係論文集目次


『警世矯俗 大塩平八郎伝』
その40

河村与一郎(貞山)

赤志忠雅堂 1888


◇禁転載◇

 四海困窮すれば、天禄永く終らん、小人に国家を治めしむれば、  サイガイ  災害並至ると、昔の聖人深く天下後世、人の君、人の臣たる者  を御戒め被置候故、        クワンクワゴク  東照神君も、鰥寡孤独に於ては、あはれみを加ふべく候、是も  仁政の基と被 仰置候、然るに于茲二百四五十年、太平之間に、                          タツサハ  追々上たる人、驕奢とておごりを極め、大功の政事に携り候諸           ジュ/\   ゾウシヤ              インヱン  役人共、賄賂を公に授受とて贈貰致し、奥向女中の縁を以て、                      ヘ ア  道徳仁義もなき拙き身分にて、立身重き役に経上り、一人一家   コヤ  を肥し候工夫のみに智術を運らし、其領分知行所の民、百姓共  に過分の用金申付、是迄年貢諸役の甚しきに苦しむ上、右の通  無体之儀を申渡し、追々入用かさみ候故、四海困窮と相成候に  付、人々上を怨みざるものなき様に成行候得共、江戸表より諸  国一同、右の風儀に落入り、                        ヘイ  天子は足利家以来、別して御隠居御同様、賞罰之ネを御失ひ候             コクソ  に付、下民の怨、何方へ告愬とて、つげ訴ふる方なき様に乱れ  候に付、人々の怨気天に通し、年々地震火災、山も崩れ、水を  溢るより外、色々様々の天災流行、終に五穀飢饉に相成候、是  皆天より深く御誡の有難き御告に候へども、一向上たる人々、  心も附かず、猶小人奸者の輩、大切の政を執行ひ、唯下を悩し、  金米を取る手段ばかりに相掛り、実以て小前百姓共の難儀を、         クサ カゲ  吾等如きもの、草の陰より常々悲察候へども、湯王武王の勢位  なく、孔子孟子の道徳もなければ、徒に蟄居致し候処、此節米  価弥高直に相成り、大阪の奉行並に諸役人共、万物一体の仁を  忘れ、得手勝手の政道を致し、江戸へ廻し米を致し、  天子御在所の京都へは廻し米の世話も致さざる而已ならず、五  升一斗位の米を買ひに下り候者共は召捕などいたし、実に、昔   カツパク  し葛伯といふ大名、その農人の弁当を持運ひ候小児をころし候  も同様、言語同断、何れの土地にても、人民は  徳川家御支配の者に相違なき処、如此隔を附け候は、全く奉行  等の不仁にて、其上勝手我儘の触書等を度々差出し、大阪市中  遊民ばかりを太切に心得候は、前々も申通り、道徳仁義を存せ  ず、拙き身分にて、甚以て厚かましき不届の至り、且三都の内  大阪の金持共、年来諸大名へ貸附け候利得の金銀並に扶持米を  莫大に掠取り、未曾有の有福に暮し、町人の身を以て、大名の  家老用人格等に被取用、又は自己の田畑新田等を夥敷所持、何  に不足なく暮し、此節の天災天罸を見ながら畏も致さず、餓死  の貧人乞食をも敢而救はず、其身は膏梁の味とて、結搆之物を  喰ひ、妾宅等へ入込み、或は揚屋茶屋へ大名の家来を誘引参り、  高価の酒を湯水を呑も同様にいたし、此難渋の時節に絹服を纏  ひ候河原者を妓女と共に迎へ、平生同様に遊楽に耽り候は、何  等の事哉、紂王長夜の酒盛も同事、其所之奉行諸役人、手に握  居候政を以て、右の者共を取締り、下民を救ひ候儀も出来がた  く、日に堂島相場ばかりをいじり事いたし、実に禄盗にて、決  して天道聖人の御心に叶ひ難く、御赦しなき事に候、蟄居の我  等、もはや堪忍成りかたく、湯武之勢、孔孟之徳はなけれども、          ケツゾク ワザハヒ  天下の為と存じ、血族の禍を犯し、此度有志の者と申合せ、下  民を悩まし苦め候諸役人を先誅伐いたし、引続き驕に長じ居候  大坂市中金持の町人共を誅戮に及び可申候間、右之者共穴蔵に  貯置候金銀銭等、諸蔵屋敷内に隠し置候俵米、夫々分散配当い  たし遣候間、摂河泉播の内、田畑所持致さゞる者、縦令所持い  たし候共、父母妻子家内之養方出来がたき程の難渋者へは、右  金米等取分け遣し候間、いつにても大坂市中に騒動起り候と聞  伝へ候はゞ、里数を厭はず、一刻も早く大坂へ向ひ馳参るべく                   キヨケウロクタイ  候、右の面々へ金米を分遣し可申候、鉅橋鹿台の金粟を下民へ  被与候遺意にて、当時の饑饉難儀を相救遣し、若又其内器量才  力等有之ものは夫々取立、無道の者共を征伐いたし候軍役にも  使ひ可申候、必一揆蜂起の企とは違ひ、追々年貢諸役に至るま  で軽く致し、都て中興 神武帝御政道の通り、寛仁大度の取扱            インイツ  に致し遣し、年来驕奢淫逸の風俗を一洗相改め、質素に立戻り、  四海万民いつ迄も天恩を難有存し、父母妻子を被養、生前の地  獄を救ひ、死後の極楽成仏を眼前に見せ遣し、  堯舜  天照皇大神の時代に復しがたくとも、中興の気象に恢復とて立  戻し可申候、此書附村々ヘ一々知らせ度候へとも、数多の事に  付、最寄の人家多き大村の神殿へ張附置候間、大阪より廻し有  之番人共に知らせざる様に心懸け、早々村々へ相触可申、万一     メ ツ  番人共眼附、大坂四ケ所の奸人共へ注進致し候様子に候はゞ、  遠慮なく面々申合せ、番人を不残打殺し可申候、若し右騒動起  り候と承乍、疑惑いたし、馳参り不申、又は遅参に及び候はば、  金持の金米は、皆火中の灰に相成り、天下の宝を取失ひ可申候                     カゲゴト  間、跡にて我等を恨み、宝を捨る無道者と陰言を致さず様致す  べく候、其為め一同に触しらせ候、尤是まで地頭村方にある年  貢等に拘はり候諸帳簿記録類は都て引破り、焼捨可申候、是れ  往々深慮ある事に候、人民を困窮為致申さゞる積りに候、乍去            ノ           リウヨウ シユゼンチウ  此度の一挙、当朝の平 将門、明智光秀、漢土の劉裕、朱全忠  の謀反に類し候と申者、是非これ有る道理に候得共、我等一同、          サントウ  心中に天下国家を簒盗致し候慾念より起し候事には更に無之、       シンカン                 ノ   ミンノ  日月星辰の神鑑にある事にて、詰る所は、湯、武、漢 高祖、明  太祖、民を弔ひ、君を誅し、天誅を執行候誠心のみに候、若し  疑しく覚へ候はゞ、我等の所業、終る処を、爾等眼を開て看よ、  但し此書附、小前の者へは、道場坊、或は医者等 より篤と  読聞せ可申候、若し庄屋年寄、眼前の 禍を畏れ、一己に隠し  候はゞ、追て急度天罪を行ふへく候、   天保八丁酉年月日        奉天命致天討候       某        摂河泉播村々          庄屋年寄百姓并に             小前百姓共へ


大塩檄文


『警世矯俗 大塩平八郎伝』目次/その39/その41

大塩の乱関係論文集目次

玄関へ