Я[大塩の乱 資料館]Я
2016.12.1

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「大塩の乱関係論文集」目次


「天保の飢饉」

小林鶯里(善八 1878-?)

『明治文明史』富田文陽堂 1915 所収

◇禁転載◇

天保の飢饉

   附 大塩平八郎 銭屋五兵衛 (紀元二四九三―二四九七 天保四年―八年)
管理人註
  

 天保四年より三年の間、米穀実らず、国民食を得ずして、犬、猫、鼠な                つく     さうこんぼくひ どを捕へて之を食し、此等のもの尽るや、草根木皮を食し、米価は幕府の 貨幣改革と相待つて、未曾有の高価を来した。飢ゑたるものは隊を組んで                なら 食を求め、食尽れば父子夫婦枕を併べて倒れ、惨状は実に目も当られぬ有 様であつた。遂に窮民は到る所に相集まつて乱をなし、武蔵、美濃、甲斐、 かうづけ しもつけ 上野、下野などは、其の中で著るしかつた。代官などは此等窮民と争さう ことを避け、彼等暴民の為すが儘に放棄した。窮民等は国禁を犯し、剣を       みち 学んで自衛の途を講ずるやうになり、また窮民ならざるものも、幕府の非 政を難ずるやうになつた。                            すぐ  此の時、大阪の与力に大塩平八郎なるものがあつて、衆に勝れて尤も治 罪の道に通じてゐた。奉行高井山城守は彼を重く用ゐて、事大小となく其 の云ふ所を採用した。山城守が職を退くと共に、平八郎も与力を其の養子 格之助に譲り、書生を集めて書を講じ、人才を養成するを以て老後の楽み としてゐたのであるが、折柄乱民四方に起り、人心幕政に飽きたるを見て、        とば 彼は檄を四方に飛し、奸吏を誅して人民の途炭を救ふを名とし、天保八年 二月十九日の夜、党を組んで火を放ち、紛擾に乗じて事を起さんとしたが、 同志の内に平山助次郎なるものがあつて、意を翻がへして変を奉行に告げ たため、遂に事成らずして自殺した。平八郎の企ては、大阪の富豪を中心 として、一万三千戸近くを焼き払つたのみであつたが、諸侯は一市民の平              くつが 八郎すら、兵を起して幕府を覆へさんとした、乃公にして起たば、幕府の        たら ごとき怖るるに足ず、と思つて将軍を軽んずるやうになつた。  飢饉と貨制改革の結果は、物価の騰貴を来し、物価の騰貴は、上下財用                                 でき に窮し、江戸の諸武士は、浅草の米倉より禄米を受るの期を待つことが能                                 あた ず、その禄米を抵当として負債を起し、負債は期日に至り返却すること能 はず、此の時代にあつて生命よりも重んじたる信用は、全たく地を払ふや うになつた。此の影響は遂に商人に及ぼし、商人は貸付けたる金銀が回収 の出来ぬので、止むなくして倒産するもの多く、不景気の声は全国を通じ て起つた。                     よ そ  斯る時にあつて、独り世の中の不景気を他所に見て、財政豊かに能く士 気を保つて居るものは、不幸にも徳川氏に順良なる諸侯ではなかつた。即 ち国禁たる外国貿易を密かに奨励した、二三の大藩は国用足り農民の反抗 なく、商人は益々栄えて、他日雄飛すべき潜勢力は、此等の雄藩の下に養 成されたのである。彼の有名なる富豪銭屋五兵衛が出たのは此の時である、 不幸銭屋五兵衛は国禁を犯して外国貿易を営んだ故を以て、遂に刑罰に処 せられ、而も其の名は高くなつたが、他の雄藩に於て五兵衛同等の人物は 幾らもあつた。  けれど幕府は、其の力微々として振はず、密商あることを知つて、之れ を糺問せんとすれば、雄藩は之れに応ぜず、幕府を蔑視して、其のものは 已に逃遁たりとか、或ひは已に死去したりしなどと云ひ、幕府の相手にな                            ありさま らなかつた。此等雄藩の眼中には、早くも徳川なく将軍なき光景であつた。



































二月十九日の夜
二月十九日の朝
が正しい






乃公
一人称の代名詞
 


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