小 久 保 喜 七
『陽明学 第27号』 陽明学会 1911.1 所収
事已に茲に至る最早一刻も猶予なり難く、事の成敗を天に任せて十九日救民の二字を染め抜きたる旗を飜へし、大砲を放ち、之れを相図に火を各所に放ち先づ鴻池に大砲を打掛け続て、三井、山城呉服店を焼き火の手八方に押拡まり八千余戸を烏有に付しました、城代初め幕吏の狼狽極度に達し、見る見る其為すが儘に一任せしが、漸くにして淡路町に於て鉾先きを交へたるが、何を云ふにも大塩の方は急遽の場合故予定の人員も集まらず、器械も充分ならざるを以て、大塩は到底事破るゝものなれば甚だしく人命を損せざる内に引上ぐるに如かずと決意し、猛士を諭して解散せしめ自分は身を其一味の紺屋見吉屋吉右衛門の倉庫の内に、子息格之助と共に潜みたりしが、発覚して捕吏の向ひたるを知り、兼ねて用意の煙硝に火を放ち、父子相共に屠腹して死にました、此事や当時幕府は種々苦心して只だ大塩が細民の飢餓に苦むを見て、疳癪起し以て無謀の挙をなしたる様伝へしめたるも、其檄文を見る時は、全く幕府の政法に向て不満を懐きたるの結果たるや明である、其檄文を見るに
又た豪家の人々の所為を憤りて曰く
又役人の不心得を論ずる條に曰く
次ぎに維新改革に直接の関係ある諸雄藩に付き観察を下さんに、第一水戸に於て勤王党の尊崇の標的となりしは藤田父子である、藤田幽谷の志想の崇高にして抱負の雄大なる左の七律一詩を見て知るべし。
春来一夜斗廻杓、北顧還憂胡虜驕、
投筆自憐班定遠、忘家誰擬鶴嫖姚、
長蛇応憶神兵利、粒食曾資瑞穂饒、
宇内至尊天日嗣、須令万国仰皇朝、
和 東 湖 韻
温酒寒園夜摘蔬、虚心交膝総忘予、
議論不熱冷於水、似読集義内外書、
又た王学雑誌第四号の海江田信義氏の談話の一節に、東湖より陽明の書を読むべしと勧告せられたる旨記しあり、且其行為の果断明敏なる等種々なる点を湊合して断定を下せば、深く陽明学に得る処ありたる様思はる。
第二長州に於ては、松下村塾を開き子弟に勤王の大義を教ヘ、身は海外の事情を探りて皇国に資する処あらんとせしが、事中途に破れ、刑死の惨禍に遇ふも、其門下より多数の志士俊傑を出したる、吉田松陰の陽明学者たるは何人も知る処、又た其門下より出て、夙に勤王の大志を抱き、全藩俗論に傾き、姦邪の徒国を売り、君を辱めんとするを憤り、憤然起ちて奇兵隊を率ゐ先づ藩の俗論党を破り、而して後ち幕府の大兵と戦ひ連戦連勝、幕府をして、和を媾ぜしめ、更に薩州と連合の約を結び、愈々勤王党飛躍の素地を確めたる高杉晋作も亦た陽明学者の一人であることは左の一詩にて明である
王学振興聖学新、古今雑説遂沈湮、
唯能信得良知説、即是議皇以上人
第三薩州に付て見んに賢君斉彬公は参勤交替の都度、岡山の清水某なるものの家に蕃山の著書多きを聞き、必ず人を派して謄写せしめたることは岡山に伝ふる処、而して維新の際同藩の大立物たるのみならず、維新大業の大立物たる西郷、大久保の二氏は共に陽明学者である、特に西郷氏は最も熱心にして王学全書伝習録を愛読し佐藤一斎の言志録中王学の真髄を得たるもの百則を鈔録し常に座右の銘となせしのみならず、其弟小平其他昵近のものをして有名なる春日潜庵の塾陽明学を学ばせました、又た水戸の藤田東湖と西郷隆盛の間に立ち、親交を結ばしめたる、海江田氏の熱心なる陽明学者たるは、尚ほ人の記憶に新たなる処である、
第四肥前に於ては名君閑叟公陽明学の崇拝者にして、同藩の俊傑枝吉神陽(故副島伯の兄)亦陽明学者である。此他浪士としては、天資剛邁勤王の志厚く、元治甲子の変、長の久坂玄瑞と共にし、事破れて山崎庄天王山に上り、屑く屠腹せし久留氷の藩士真木和泉の如き、頼三樹等と共に尊攘を主唱せし、一代の詩宗梁川星巌の如き又学問深淵、識見明快、決然として開国論を唱道し、一世の耳目を聳動したる信州の佐久間象山、熊本の横井小楠の如き、皆な陽明を学びたるものである、此く挙げ来りて見れば、維新改革の局面に顕はれたる、有名の人々は大概我陽明学の徒であることが明である、随て維新改革に陽明学が与りて大功ありと断定を下すも誰れか之れを不可なりと申しましよう、右は余が思ひ付きたる大体を開陳せしに過ぎざるが能く調ふれば一層痛切の事実があると思はるゝを以て、怠らず御互に此点に向て研究したいと思ひます (完)