Я[大塩の乱 資料館]Я
2000.2.11

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大塩の乱関係論文集目次


「維 新 改 革 と 陽 明 学」

小 久 保 喜 七

『陽明学 第27号』 陽明学会 1911.1 所収



維新改革と陽明学(承前)

下りて大阪の大塩平八郎は与力の家に生れ、刻苦勉励、深く陽明の学に通じ、現役に当りては種々功績あり、致仕して後ち徒を集めて教授し、其学の深淵なるは其著洗心洞箚記を見て明かである、常に幕府の施政古聖賢の道に違び、下民を圧虐するを悪みつゝありしに、天保四年より五年六年七年八年と打続き飢饉なりしかば、京摂の貧民困窮甚しく、餓孚野に充つ、平八郎屡々奉行に向て之れが救済を請求するも之れを容れざるのみならず、却て之れを冷却するの有様なるより、平八郎意を決し将さに八年丁酉の四月十日東照宮の祭日を以て事を挙げ、城代土井大炊守、東西奉行跡部山城守、堀伊賀守等が建国寺に詣づるの時を俟ちて其不意を襲ひ幕吏の巨魁を挙げて一時に鏖殺し呉れんと期しました、二月十八日の夜大塩社中の平山助次郎、吉見九右衛門、之れを奉行所に密告しました、奉行所に詰め居りたる大塩の同志小泉淵次郎、瀬田済之助の二人宿直なりしが小泉は殺され独り済之助一人逃れ帰り事の曝露せしを大塩に告ぐ。

事已に茲に至る最早一刻も猶予なり難く、事の成敗を天に任せて十九日救民の二字を染め抜きたる旗を飜へし、大砲を放ち、之れを相図に火を各所に放ち先づ鴻池に大砲を打掛け続て、三井、山城呉服店を焼き火の手八方に押拡まり八千余戸を烏有に付しました、城代初め幕吏の狼狽極度に達し、見る見る其為すが儘に一任せしが、漸くにして淡路町に於て鉾先きを交へたるが、何を云ふにも大塩の方は急遽の場合故予定の人員も集まらず、器械も充分ならざるを以て、大塩は到底事破るゝものなれば甚だしく人命を損せざる内に引上ぐるに如かずと決意し、猛士を諭して解散せしめ自分は身を其一味の紺屋見吉屋吉右衛門の倉庫の内に、子息格之助と共に潜みたりしが、発覚して捕吏の向ひたるを知り、兼ねて用意の煙硝に火を放ち、父子相共に屠腹して死にました、此事や当時幕府は種々苦心して只だ大塩が細民の飢餓に苦むを見て、疳癪起し以て無謀の挙をなしたる様伝へしめたるも、其檄文を見る時は、全く幕府の政法に向て不満を懐きたるの結果たるや明である、其檄文を見るに

此暴動は一日にして鎮まりたれども、泰平三百年、上下文恬武煕、人心柔弱に流れ、徳川氏に対し無限の畏敬と恐怖を払ひつゝある時代に起りたるを以て、事の余り意外の為め、却て其評判が四方に伝播し、加ふるに一市吏の崛起すら、之れが防禦に困難する様にては、若しや大藩が事を挙げたる場合には、幕府はドンナに狼狽するやも知れずとの感想を起すもの多く、所謂天下変を思ふに至りました、本件亦た幕府の基礎に向つて幾分の動揺を与へ、間接に維新改革の因をなしたりと云ふてよからう。

 

次ぎに維新改革に直接の関係ある諸雄藩に付き観察を下さんに、第一水戸に於て勤王党の尊崇の標的となりしは藤田父子である、藤田幽谷の志想の崇高にして抱負の雄大なる左の七律一詩を見て知るべし。

此幽谷は熊沢蕃山の崇拝者にして、自ら其伝を作りて賞賛して止まず、当時士人間に於て幕府を憚り表面上陽明学を学ぶ事は、掩ひたる場合故、幽谷も自ら陽明学者なりとは明言せざるも、蕃山崇拝の点より推想せば、必ずや陽明学に得る処ありたるや明である、子東湖も一世の後傑なりしが亦蕃山先生の崇拝者たることは横井小楠の手記並に詩に於て明である

夫れ集義内書、集義外書は蕃山の著書にして以て、東湖が如何に議論の根抵を蕃山の学説に置きしかを知ることが出来る。

又た王学雑誌第四号の海江田信義氏の談話の一節に、東湖より陽明の書を読むべしと勧告せられたる旨記しあり、且其行為の果断明敏なる等種々なる点を湊合して断定を下せば、深く陽明学に得る処ありたる様思はる。

第二長州に於ては、松下村塾を開き子弟に勤王の大義を教ヘ、身は海外の事情を探りて皇国に資する処あらんとせしが、事中途に破れ、刑死の惨禍に遇ふも、其門下より多数の志士俊傑を出したる、吉田松陰の陽明学者たるは何人も知る処、又た其門下より出て、夙に勤王の大志を抱き、全藩俗論に傾き、姦邪の徒国を売り、君を辱めんとするを憤り、憤然起ちて奇兵隊を率ゐ先づ藩の俗論党を破り、而して後ち幕府の大兵と戦ひ連戦連勝、幕府をして、和を媾ぜしめ、更に薩州と連合の約を結び、愈々勤王党飛躍の素地を確めたる高杉晋作も亦た陽明学者の一人であることは左の一詩にて明である

、 此他高杉と同志の人にて陽明学を奉せしもの少なくない、

第三薩州に付て見んに賢君斉彬公は参勤交替の都度、岡山の清水某なるものの家に蕃山の著書多きを聞き、必ず人を派して謄写せしめたることは岡山に伝ふる処、而して維新の際同藩の大立物たるのみならず、維新大業の大立物たる西郷、大久保の二氏は共に陽明学者である、特に西郷氏は最も熱心にして王学全書伝習録を愛読し佐藤一斎の言志録中王学の真髄を得たるもの百則を鈔録し常に座右の銘となせしのみならず、其弟小平其他昵近のものをして有名なる春日潜庵の塾陽明学を学ばせました、又た水戸の藤田東湖と西郷隆盛の間に立ち、親交を結ばしめたる、海江田氏の熱心なる陽明学者たるは、尚ほ人の記憶に新たなる処である、

第四肥前に於ては名君閑叟公陽明学の崇拝者にして、同藩の俊傑枝吉神陽(故副島伯の兄)亦陽明学者である。此他浪士としては、天資剛邁勤王の志厚く、元治甲子の変、長の久坂玄瑞と共にし、事破れて山崎庄天王山に上り、屑く屠腹せし久留氷の藩士真木和泉の如き、頼三樹等と共に尊攘を主唱せし、一代の詩宗梁川星巌の如き又学問深淵、識見明快、決然として開国論を唱道し、一世の耳目を聳動したる信州の佐久間象山、熊本の横井小楠の如き、皆な陽明を学びたるものである、此く挙げ来りて見れば、維新改革の局面に顕はれたる、有名の人々は大概我陽明学の徒であることが明である、随て維新改革に陽明学が与りて大功ありと断定を下すも誰れか之れを不可なりと申しましよう、右は余が思ひ付きたる大体を開陳せしに過ぎざるが能く調ふれば一層痛切の事実があると思はるゝを以て、怠らず御互に此点に向て研究したいと思ひます (完)


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