Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.2.2修正
1999.9.21

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大塩の乱関係論文集目次


「大塩が事は素志達せさるに発す」ほか
小宮山綏介編輯

『近世豪傑譚』藍外社 1882より
(底本 1900刊 第11版)



句読点を適宜加えています。

例言三則

一、此書は徳川氏治世二百七十年の間に著はれし豪傑の言行を纂輯す。但世の所謂豪傑なるものは多く士大夫以上に在て其此より以下は往々遺す所に在り。今や然らす凡そ農商の徒、方伎の流、及ひ襍芸賎業の輩と雖とも苟も其才徳行為、人に超たるものあれは皆之を釆録す。

一、凡そ纂輯する所は世代の前後を問はす貴賎の品位を論せす。或は一人にして累見し或は一事にして重出す。甚た倫次なきに似たりと雖とも、もと其料を採るに或は小説私記に於てし、或は耳受口伝に於てし隨て得隨て録するものなれは必しも位を以て相序て類を以て相従はさるなり。

一、凡そ称謂、或は名字、或は道号、或は通称を用ふ。若し其人華族以上なれは、或は謚号藩名、又は爵位を用ふるあり。皆得る所の本語に拠るのみ別に定例あるに非す。

 

明治廿五年一月 編者識


(10)大塩が事は素志の達せざるに発す

大塩後素、夙に大志あり。常に云ふ。余小官なりとも、一たび出て天下の大政に与る事を得は、吾生涯の願い足らんと。或時、林大学頭の家宰、大坂に来たりて、金を仮る事ありしに、或人これを後素に告げて云く、祭酒は大府の儒官にて、常に人才をも推薦するよしなれば、此度を幸に、金を仮し、密に素願の趣を倚頼(いらい)すへしと。後素、喜んでこれに従ふ。是は、彼の家宰より祭酒に請託して、勘定所の勘定に挙けらるゝやうとの事なるよし。然るに、家宰、東帰の後、杳として一信なし。これを促せとも、尚かの報を得す。後素、堪かねて自ら江戸に下り、親しく家宰に就て、これを催促したれとも、竟(つひ)に其事成らずして、空しく帰坂す。然るに、僅に年を踰(こえ)て、丁酉の乱あり。因て思ふに、此事は全く家宰の承諾までにて、祭酒は初より知らさる事歟、又は祭酒もこれを知て薦めたれとも、其機熟せすして、事成らさりし歟、両つの内に、必す其咎の帰する所あらんと。此説は、余り世人の伝へざる事なり。


(27)大塩後素大坂の乱を予言す

或人、大坂に遊んで大塩後素を訪ひ、談、天下の治乱に及ぶ。或人云く、天下、若事あらんには、必争の地なれば、必ず江戸より起らんと。後素が云く、然らず、江戸には自らその備あれは、容易に事を挙ぐべからず、事は必ず大坂より起らんと。是れ丁酉の乱前年の事なり。是を見れば、後素の禍心を蓄へしは、蓋し一朝夕の事にはあらざるべしと、或人、後に語りしと云。是も一説なり。


(29)大塩後素妾の時様【米女】(しやう)*1 をなすを怒る

大塩後素、一人の愛妾ありしが、或時、かの頃専ら世に行はれし、芝翫染の衣服を着るを見て、これを怒り、己に手刃せんといひしを、義子の格之助、切に諌めて、止みたれと。その怒は猶霽(は)れず、薙髪(ちはつ)せしめて尼となしたり。後素、平生厳急の性質にて、往々かくの如き事ありしとなり。


管理人註
*1【米女】 目次では「粧」。

大塩が職を辞してのち、江戸に行ったことは確認されていません。
また、妾「ゆう」が剃髪したのは、弓削の事件との関りで、というのがよくでてきます。


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