Я[大塩の乱 資料館]Я
2002.5.5訂正
2002.2.19

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大塩の乱関係論文集目次


「暴力革命について(仮題)(抄)」

幸徳秋水 (1871−1911)

『大逆事件記録 第1巻 獄中手記』
(神崎清編1950 実業之日本社)より



改行を適宜加えています。

「暴力革命について(仮題)」

磯部先生足下、
花井君足下、
今村君足下、

  東京監獄在監人
    幸徳伝次郎

 磯部先生、花井・今村両君足下、私共の事件の為めに、沢山な御用を抛ち、貴重な時間を潰し、連日御出廷下さる上に、世間からは定めて乱臣・賊子の弁護をするとて種々の迫害も来ることでしやう。諸君が内外に於ける総ての労苦と損害と迷惑とを考へれば、実に御気の毒に堪へません、夫れにつけても益々諸君の御侠情を感銘し、厚く御礼申上げます。

 扨て頃来の公判の模様に依りますと「幸徳が暴力革命を起し」云々の言葉が、此多数の被告を出した罪案の骨子の一となつて居るにも拘らず、検事調に於ても予審に於ても、我等無政府主義者が革命に対する見解も、又た其運動の性質なども一向明白になつて居ないで、勝手に憶測され解釈され附会されて来た為めに、余程事件の真相が誤られはせぬかと危むのです。就ては一通り其等の点に関する私の考へ及び事実を御参考に供して置きたいと思ひます。


【中略】

一揆・暴動と革命

 単に主権者を更迭することを革命と名づくる東洋流の思想から推して、強大なる武力・兵力さヘあれば、何時でも革命を起し、若くば成し得るやうに考ヘ、革命家の一揆・暴動なれば、総て暴力革命と極めて仕まつて、今回の「暴力革命」てふ語は出来たのではないか、と察せられます。

 併し、私共の用ゆる革命てふ語の意義は、前申上ぐる通りで、又一揆・暴動は、文字の如く一揆・暴動で、此点は区別しなければなりません。私が大石・松尾などに話した意見(是が計画といふものになるか、陰謀といふものになるかは、法律家ならぬ私には分りませんが)には、曾て暴力革命てふ語を用ゐたことはないので、是は全く検事局、或は予審廷で発明せられたのです。

 大石が、予審で「幸徳から巴里コンミユンの話を聞〔い〕た」と申立〔て〕たといふことを承りました。成程私は巴里コンミユンの例を引〔い〕たやうです。磯部先生の如き仏蘭西学者は、元より詳細の困難やで、人御承知の如く、巴里コンミユンの乱は、一千八百七十一年の普通〔仏〕戦争後、媾和の屈辱や生活心洶々の時、労働者が一揆を起し、巴里市を占領し、一時市政を自由にしたことがあります。此時も、政府内閣はウエルサイユにあつて、別に顛覆された訳でもなく、唯だ巴里市にコンミユン制を一時建ただけなんですから、一千七百九十五年の大革命や一千八百四十八年の革命などと、同様の革命といふべきではなく、普通にインサレクシヨン、即ち暴動とか一揆とか言はれて居ます。公判で大石は、又仏蘭西革命の話など申立〔て〕たやうですが、夫は此の巴里コンミユンのことだらうと思ひます。彼はコンミユンの乱を他の革命の時にあつた一波瀾のやうに思ひ違へて居るのか、或は巴里コンミユンといふべきを言ひ違へたのであらうと思はれます。

 コンミユンの乱では、コンナことをやつたが、夫れ程のことは出来ないでも、一時でも貧民に煖く着せ、飽くまで食〔は〕せたいといふのが、話の要点でした。是れとても、無論直ちに是が実行しようといふのではなく、今日の経済上の恐慌・不景気が、若し三・五年も続いて、餓途に横はるやうな惨状を呈するやうになれば、此暴勤を為しても、彼等を救ふの必要を生ずる、といふことを予想したのです。是は最後の調書のみでなく、初めからの調書を見て下されば、此意味は充分現はれて居ると思ひます。

 例へば、天明や天保のやうな困窮の時に於て、富豪の物を収用するのは、政治的迫害に対して暗殺者を出すが如く、殆ど彼等の正当防衛で、必至の勢ひです。此時には、これが将来の革命に利益あるや否やなどと、利害を深く計較して居ることは出来ないのです。私は何の必要もなきに、平地に波瀾を起し暴挙を敢てすることは、財産を破壊し、人命を損し、多く無益の犠牲を出すのみで、革命に利する処はないと思ひますが、政府の迫害や富豪の暴横其極に達し、人民溝壑に転ずる時、之を救ふのは、将来の革命に利ありと考へます。左れど、此〔か〕ることは利害を考へて居て出来ることではありません。其時の事情と感情とに駆られて、我知らず奮起するのです。

 大塩中斎の暴動なども、左様です。飢饉に乗じて、富豪が買占を為す、米価は盆々騰貴する。是れ富豪が間接に多数の殺人を行つて居るものです。坐視するに忍びないことです。此乱の為めに、徳川氏の威厳は、余程傷けられ、革命の機運は速められたとは、史家の論ずる所なれど、大塩はそこまで考へて居たか否やは分りません。又彼が革命を起せりといふことは出来ないのです。

 然るに、連日の御調べに依て察するに、多数被告は、皆な「幸徳の暴力革命に与せり」といふことで、公判に移されたやうです。私も予審廷に於て、幾回となく暴力革命云々の語で訊問され、革命 と暴動との区別を申立てて、文字の訂正を乞ふのに非常に骨が折れました。名目はいづれでも良いではないか、と言はれましたが、多数の被告は、今や此名目の為めに苦しんて居ると思はれます。

 私の眼に映じた処では、検事・予審判事は、先づ私の話に「暴力革命」てふ名目を附し、「決死の士」などいふ六ケしい熟語を案出し、「無政府主義の革命は、皇室をなくすることである。幸徳の計画は、暴力で革命を行ふのである。故に之に与せる者は、大逆罪を行はんとしたものに違ひない」といふ三段論法で、責めつけられたものと思はれます。そして、平素直接行動・革命運動などいふことを話したことが、彼等を累して居るといふに至つては、実に気の毒に考へられます。


【後略】

 現に角右述べました中に多少のとるべきあらば之を判官・検事諸公の耳目に達したいと存じます。
 明治四十三年十二月十八日午後
    東京監獄監房にて
       幸徳伝次郎



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