Я[大塩の乱 資料館]Я
1999.6.27
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大塩の乱関係論文集目次
「明治期の新聞記事にみる大塩事件」
久保 在久
『大塩研究 第4号』1977.10より転載
◇禁転載◇
幕末期に一世をとどろかした大塩平八郎の乱が、その後近代史においてどのようにとりあげられ、評価されてきたのであろうか。自由民権運動の高まりのなかで、幸徳事件の波紋のなかでさまざまに脚光をあびてきた。これらをさらに多面的に整理・研究をすすめると、それぞれの時代が大塩事件になにを求めたかを明らかにすることができるように思われる。
ここでは、とりあえず明治期の新間記事から関連した記事を随時えらび出した。「東雲新聞」については全号通覧した結果一点を発見し、ここに紹介する。
「大阪朝日新聞」については、明冶三一年一月から三二年七月にいたる分と、同四三年一月分をとりあげた。その後の記事についても調査がすすめば適時紹介する機会をもちたいと思う。参考になれば幸いである。
なお、転写にあたっては、ルビは省略し、漢字も当用漢字に書き直した。
◇東雲新聞
・明22・5・19
・大塩氏の紀念碑
横田虎彦、日下部正一、舟丘義博、中村宗十郎等の諸氏ハ故大塩平八郎氏の為めに一の紀念碑を建設せんと予てより奔走中なりし所賛成者も追々増加し愈よ建設する事になり東京の石工志賀喜一郎と云ふ人へ既に碑石を注文したりと
◇大阪朝日新聞
・明31・4・15
新 小 説
明日の紙上より、左の歴史小説を連載せんとす、茲にその緒言を掲げて解題に代ふ
大塩平八郎 無名氏
はしがき
大塩後素が生涯を初中晩の三期に分たば、初期は則ち阿波に生れたるより、後年大阪に来りて大塩家に養はれ、与力の職を襲ふまでを少年時代とし、中期は則ち高井城州に知られて、妖巫を捕ヘ、姦吏を糾し、売僧を沙汰し、遂に城州と共に致仕するまでを仕官時代とし、晩期は則ち専ら陽明の学を唱へ学生の教導に従事せるより、凶歉に際して力を救民に致し、上司に抗して遂に焚死の人、大辟の人となれるまでを学者時代とせん、此編は単に晩期学者時代の最後の一節を叙して、其の社会主義の実行者たる後素が生涯を尽せりとは云ふ可らず、然れども、其の救民の一挙は、知行合一の学理を実行せるものにて、尤も真面目の存する所なれば、題するに大塩平八郎を以てするも散て失当に非るべきを信ず、鳴呼後素歿して茲に六十一年、米廩■空を告げ穀価日に貴し、今にして後素を説くも亦無用の談にあらざるべきか、此篇始め脚本に製せんとして、中ごろ小説に改めたれば、時に戯曲の痕迹なきを免れず、要は唯だ広く俚耳に入らんが為めのみ、幸ひに其意して瀏覧あらんことを請ふ
( 註)
■は「尸」の中に「僂」のツクリがはいった文字です。 補助漢字の2690 「しばしば」
◇大阪朝日新聞
・明31・6・29
大塩平八郎 無名氏
第二十四回 祭典 (一)
時維明治三十一年四月十七日、今度有志者の尽力に依り、新に朝廷の免許を得て旧の天満与力町、則ち大塩平八郎の屋敷跡に、荘厳に建設されし大塩神社に於て、盛んなる六十一年祭を執行され、参拝の為め、貴賎老若四方より群集すれば、其を目的に道の両側に、観物の小屋、売物の露肆など出す者さへありて、其雑沓云はん方も無し、是も参拝の人と覚しく、木綿の黒紋附の羽織に、白木綿の兵子帯締たる、尚年少き甲乙の書生、群衆を押分けて社務所に至り、幾許の賽銭を納めて、種種の供物を神前に捧げ、殊勝にも社殿に蹲踞りて拍手
鳴らして礼拝を遂げ、頓て甲は懐中より、用意の祝詞を執出し恭しくこそ読上げたれ
(中略)
読了つて又も一礼なし、其場を退きて絵馬堂の下なる、茶を売る店に腰うち掛け、多葉粉一喫くゆらしつヽ
甲「大塩神社建設のことは、新聞紙でも知り、又風説にも聞てゐたが、参拝す るのは今日が始め、思つたよりは荘厳に出来た
乙「僕も始めて来たが、最初の有志者の考案は、中之島か天王寺公園ヘ、例の紀念碑を建る計画で有たといふ事だが、有志者の中の一人が紀念碑を建るのも悪くは無いが、我邦の人は、紀念碑を尊敬する習慣が無いから、とかく其前を素通りにする者が多く其碑文を読で其人の功労を賛嘆する人などは、尚以て稀少いから、夫より銅か石で、肖像を建た方が宜からうと云ひ出したが、其中の又一人が、肖像は結構だが、依然紀念碑と五十歩百歩、之を尊敬賛嘆する人よりは、作物か飾物視する者が多く、而も夫さへ最初の中のこと、終局には路傍の石仏と一般、誰も顧る者もないやうになるから寧そ社を作つて神に祀つたが宣からう 英雄豪傑を神に崇めるのは、我邦人の旧慣遺俗だから、紀念碑や肖像を造へて、公園に建る西洋風よりは自然我国体にも人情にも適合ふ理だと云ひ出したので、一同夫に賛成して、新に朝廷に願つて許可を得、大塩神社の名を以て、斯うして社殿を造営し、本社は即ち後素先生、末社は養子の格之助、瀬田、小泉、大井、圧司其他天誅救民の義挙に与して、非命の死を遂げた義土達を祀つたといふ事だ、成程此方が我国体にも人情にも適ふから、永遠に人民の尊敬を保ち、又其人の功労を長久に留める事が出来る理で僕も頗る賛成だ (以下略)
◇大阪朝日新聞
・明・31・1・10
大塩の残党は東京の老探偵
去六日午後東京吉原江戸町二丁目の貸座敷文河内楼の娼妓花紫事本名根本やす(十九年)といふが遊客埋田鉄五部といふものゝ為めに出刃庖丁を以て無惨にも殺害せられたるより憶りなくもやすが父の素性世に知らるるに至りたり其の実父は名を中村佐吉と呼れて元大阪の産なるが十六七才の頃までは堂島の米仲仕をなし力量抜群にして素人角力の大関に推さるゝ程なりしが今を距ること六十二年前夫の大塩平八郎が暮府の秕政を憂ひて済民の義兵を挙ぐるや卒先して其隊に加はり大砲方となりて大いに力を尽したるに事敗れて徒党の面々八方に退散する中に佐吉は大胆にも江戸をさして逃げ延びつゝ伝を求めて八町堀与力の家に奉公し其後探偵の仲間に入りて本所吉岡町の大裏に住居を求め其の職を励み居たりしかば維新後も引続きて警視庁の刑事巡査となり吾妻橋警察署の老探偵とて四十年来辟邪降福の為めに尽瘁し其の名高く其齢七旬を超えたるが壮者も及ばざる力量依然として衰へず就中本所仲の郷元町にて力士あがりの賊と格闘して身に傷痍を被りながらも屈せずして遂に其の兇賊を捕縛せし如きは実に殊勝の功名なりとて特に其筋の賞与を受けたる事ある程の者なりしも去る二十三年七十七才の高寿にのぼりて其の職を辞し二十六年に至り八十歳の寿を卒へて病死したりしといふ 中村は生前六七度も妻を替ヘたりしが最後に迎へたる妻つねとの間に産れたるが此惨禍に罹りたるおやすにして中村病死の後おつねも身の活着を失ひておやすを伴れたるまゝ根本某に再縁し此処でも幸福悪くして遂に娘を苦界に沈めしなりとぞ
◇大阪朝日新聞
・明・31・11・26
中斎大塩先生の墓
当地の有志相謀り客年の孟冬大塩中斎先生の六○年法会を東天満寺町成正寺に挙げしや座間建碑の事を談じ合ひしが頃日愈鹿田松雲堂主人の発起を以て費目を勧募し寺内に存せる先生父祖の墓石に次して基墓を建て題字は先生及門の遺老田能村直人翁の筆を鐫せんとすといふ 墓は高さ二尺五寸、幅一尺の御影石を用ひ台石共総高さ四尺五寸許りに築上げん設計の由
◇大阪朝日新聞
・明・32・3・24
大塩中斉建碑式
一昨秋当地の有志者相謀り中斉大塩八郎六十年忌追悼会を大塩家墳墓を存せる天満寺町橋東詰の成正寺に執行せし折来会者一同の賛助を得て中斎の墓碑を建設せんこととなり鹿田静七氏主として其事に当り爾来経営懈らず
(表)中斎大塩先生墓(行書)
(裏)明治三十年十月念門人田能村癡書
の墓碑は客臘既に其功を竣り成正寺本堂前の右手に中斎が父祖の墓石に並ぴて一株の白梅後を擁せり、建碑式は来る二十六日午前十時より執行し煎茶酒飯席を設け中斎が遺物を展列すべしと
◇大阪朝日新聞
・明・32・3・27
大塩中斎建碑式
予期の如く大塩中斎建碑式は追悼法会と共に昨二十六日午前十時より天満寺町橋東詰の成正寺に於て執行されたり、幔幕を張りたる玄関灑掃を施せる庭砌大蘇鉄の緑濃なる傍に梅花一樹を背後にしたる質素の墓石こそ大塩中斎先生墓なれ、本堂に於て読経回向の式あり、書院には中斎の遺墨数多を陳列し就中自画賛の陽明像は好事者の喜ぶべきものなりき、来賓には煎茶菓酒肴の響応あり、比日暗雲狂雨風稍寒うして気自から幽寂転た六十二年前当日の光景を回想せしめたり、大塩中斎は信仰の人なり社会主義の人たり貧困窮乏者の味方として無告民生の救護者とてし一身を犠牲に供せるの人なり、其生時は寛政六年甲寅の歳、生地は阿波国美馬郡脇町にして夙く母を喪ひ緑故に因り幼より大阪の某に託育せられ七歳にして大塩氏を継ぐ、されぱ幼年よりして其身生は逆境に養はれ不幸に遭遇したるなり、其身を殺したるの挙は実に此逆境の苦困を知ることの根抵あるに因りしなり、その事成らざりしは手段の暴に出でしが為なりと雖も其志と学問は実に今に於て充分之を追尋し之を敬ふべきもの、社会問題など紛起せる際此人の一生を解せんことは蓋し等閑の業に非ず、三宅雪嶺氏曰く『我が邦古来忠義の士に富む而も窮民の為に貧婪の富豪を撃たんとして崛起せしものは独り指を平八郎に僂せざるべからざるなり』とよく其当を得たるの評といふべし、浪華の地が豊大閣の居城たりし名誉富豪家の淵叢たる名誉を荷ふ上はまた此社会主義の英雄たる大塩中斎の居住地たりし名誉をも誇りて可なり。さて当日来賓は折柄来阪せる草間時福氏を初め午前より午後にかけ陸続参集五十余名に達し厳粛なる会合なりき
◇大阪朝日新聞
・明・43・1・11
『大塩平八郎』
畏友幸田成友君が『大塩平八郎』を書きますが何か材料が欲しい、大塩の手紙をお持のやうですから拝借に来ましたと、昨年の夏の末浴衣がけのまゝ一夕訪問された折、つまらぬものながら本書の附録に転載されてある一通を差上げ、同時に拙稿『手紙の猪飼敬所』の中から大塩関係の分を御目に掛けたところ、大喜びで抄写して帰られたのが、アチコチに用立つてあるのも嬉しい、「平八郎に関する新事実の発見は向後恐らくは此方面にあらうと考へる」と本書の末尾に記されてある通り、紛々として一つも取留めのなかつた大塩平八郎の公的私的両方面の史実は、本書の発行によりて今後手紙の上から研究を積みて的確に赴くであろう
本書成功の要素はその材を大塩の私友にして公敵たりし阪本鉉之助の「咬菜秘記」や、その他これまで広く読まれてゐなかつた公文書類の方面、乃至墓しらべの結果に採りしに由るは申す迄もなく、著者が久しく市史編纂の事業に主任として、在阪中に取扱はれたさまざまの文書眼より得来つた貴重の土台の上に築かれてある丈け個人としての真面目は更なり、大塩騷動としての真相が明々白地にさらけ出されてあるのは痛快である
肖像の目附からぬことの遺恨が述べられてあるにつけて憶ひ出すのは大塩門の田能村直入翁に会見の折、今も朧気に眼底に残つてゐる大塩先生の画像を書いてお上げしませうと物語られて後、間もなく翁の亡くなられた予の遺恨は、幸田君のそれも同じ度合であらうと考へる
今一つ大塩伝中疑案の第一たる大塩家の実子養子一件が小気味よく実子と断定されたのは愉快であるが何が故に養子説として阿波の脇町の真鍋家の名が従来麗々と掲げ出されたかの反問が叫ばるゝかは一段の記述が欲しいやうな心持もする、予も近ごろ脇町に遊び真鍋家の事に就き多少の穿鑿を試みたが取留めたことは無かつた、これも遺恨の一つである
一月八日の夜、社の夜勤を済ませて帰宅したのは九日の午前一時、帰つて見ると本書が郵送されてゐる、故人に遇ふやうな気がして一気に読み畢り、明けての朝卒業の記念に、取敢ずこれだけの事を書いて『大塩平八郎』をまだ見ぬ人々に紹介して置く(好尚)
◇大阪朝日新聞
・明・43・1・15 (広告)
文学士 幸田成友著
菊判四百六十頁 大塩真跡三葉絵図二葉挿入
洋装華麗 正価一円五十銭 送料十二銭
最新刊 大塩平八郎
洗心洞箚記の著者にして且つ天保騷乱の主魁たる大塩中斉は、抑も英雄か、将た陽明学派の一哲人か、否将た一介の野心児か、蓋し畢竟筧史上の?たるならんや、著者幸田文学士は永く大阪に在り、公嘱に応じて大阪市史の編成を主裁するの傍、這の怪傑が不可測の人格に興味を抱き、終始口舌に尽し難きの苦心を費して其実績を踏査し茲に史上の秘密圏を照破せられたるものにして、真に権威あるの名著たるは既に識者間の定評ある所、運命の幻怪は時代の風潮と暎発して、読者をして事実の転た小説よりも奇甚しきものあるに驚かしむ。庚戌文壇劈刀の新光彩!
発行所 東京本郷一丁目 振替東京一七一 東亜堂書房
大阪北渡辺町角 振替東京二八二三 杉本
(当研究会々員)
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