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予聞く刑場の狗、一たひ罪余の片臠を喫すれば、其美復た忘る可からず、終
に犬となりて人を見れば即ち咬み以て快と為し、其欲盈るに及はず、終に
撲殺に遇ふに至ると、鳥居甲斐の如き乃ち之れに類する無らん乎、甲州未た
耀蔵たりし時、目付にて同気相求る天文方見習渋川六蔵を吹挙し、書物奉行
たらしめ、(書物奉行は林大学頭配下にして、将軍手元の書楓山文庫を司る、
先任は林式部にて、大学頭の末男藕と号する人なりしが、同人二の丸留守
居に転じ、昌平黌を兼務せし、後任は即ち六蔵なり、)此人世々天文方にて、
横文を読み得るにより、夫の高野長英、渡辺崋山等の人をも知り、併せて其
著述夢物語憤機論の類世間に未た知らざる日早く知り得て耀蔵に示し、耀蔵
之を得て終に訐きて獄を起し、連累数人に及びたりき、此獄自余の目付役の
能く告訴し得可きにあらさるを以て、頗る同僚中に誉を得しより大に得色あ
り、以来兎角聡明を用ひ過きて人を誣罔し、告訐を以て主旨と為し、羅織構
陥屡々と疑獄を起し、無辜に惨苛を被らしむ、矢部氏の事の如き尤其悪む可
きの挙にして、壬寅の丙申を距る七年の後なるも、遡りて仁杉五郎左衛門の
罪を治し、其不問に付したる当任の奉行筒井氏が罪は罷役に止りて、後任の
矢部は擬律の軽きを以て禁錮没籍とは何等の処刑なる哉、非理も亦甚し、葢
し矢部か才識物望共に己か上に出るを以て平生之を娼嫉し、中傷する所あら
んとせしも、未だ其間を得ざりしが、仁杉が罪を擬するの寛に失せしと云ふ
に及んで、始て宿志を達するの時来れりと為し、西丸造営の議に、矢部は水
野越前守に忤ひ、再び要地に挙られたりと雖も、一旦隙を生じたるに根し、
百方蠱惑終に此獄を結ぶに至れり、鳥居罪を被るの日に至り、矢部が後は召
出され、人心の不平は慰したらと雖も、天保の改革をして美を寛政にふす
るを得ざらしめしは、実に遺憾の甚しきと云はざるを得ず、鳥居が聡明を誤
用して獄を治る残酷なる処断に及びしは、後日に列する宣告等の外、猶ほ開
く所を述べて以て、矢部が寃を蒙らし証となさん、
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片臠
(へんれん)
盈(みち)る
訐(あば)き
羅織
無罪の人を捕ま
えて罪を 作り
上げること
擬律
(ぎりつ)
犯罪事実に法律
を適用すること
忤(さから)ひ
蠱惑
(こわく)
たぶらかすこと
(つれあ)ふ
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