大塩中斎先生墓・大塩格之助君墓(門前顕彰碑)がある。大塩家の菩提寺として九基の墓がある。江戸時代平八郎の墓は許されなかったので、1897年に田能村直入が建立、1945年戦災で破損したため1947年に有志が父子の墓を復元させた。乱150年に当たる1987年に「大塩の乱に殉じた人ぴとの碑」が建立された。
東町奉行所与力大塩平八郎の役宅があった。1825年正月、入学盟誓八カ条を制定、教育方針を明示し、学塾・洗心洞を開いた。平八郎は、1830年職を辞し家督を養子格之助に譲り、学問と教育に専念し、万物一体の仁を説いた。主著『洗心洞箚記」はこの塾名による。大塩勢はここから出撃した。
忠兵衛は東成郡般若寺村に生まれ、持高50石で庄屋を勤めた。洗心洞塾の高弟で、平八郎の内妻ゆうは妹分、娘みねを平八郎の養子格之助の妻として、大塩家と強く結ぱれていた。裕福な忠兵衛は他の富農と共に大塩を経済的に支えた。乱の直前、大塩は窮民1万人に一朱ずつの施行を行ったが、忠兵衛は160枚を般若寺村周辺に配布し、天満に火事があれぱ必ず大塩先生の許へ駆け付けよと申し伝えた。忠兵衛は、ゆう、みねとともに京都で捕えられ、牢死後磔刑に処せられた。
1818年に大塩平八郎が先祖追善のために建てたもの。入口に、行基開基碑がある。春岳院清空・平八郎高祖父 大塩喜内・本覚院不二日性・高祖父弟助左衛門、耀山院誠意日凉、祖父政之丞、覚信院秀雄・叔父石川吉次郎など の墓がある。近くに同名の私営南浜墓地がある。
清は平八郎の祖父政之丞成余の後妻、平八郎の父敬高の継母である。清は良心を早くなくした平八郎を厳しく躾け、気質の形成に影響を与えた一人とされる。清と政之丞の間に一男・志摩があり、後に吹田の神官宮脇家の養子になった。志摩は直接乱に参加していないが、自害した。
造幣局の付近一帯は江戸時代に天満与力の役宅が軒を並べていた。敷地総面積3万坪て、1軒当たり500坪という広大な敷地を有していた。今残っているのは東町奉行組与力中嶋藤内の役宅門である。
大塩の乱で砲撃を受けたと伝えられる造幣局北門前の槐の古木は、高さ約10米で樹齢約200年であっだが、1984年3月伐採された。
夏の陣のあと大坂城主となった松平忠明は、1617年川崎の地に東照宮を建て大坂の町民に徳川家への尊崇 を促した。建国寺とも称され、境内の桜で賑わった。乱のとき類焼した。
初代は通称鴻池善右衛門。1656年両替商を開く。1674年今橋に移る。鴻池屋敷は大塩勢攻撃の的となって 焼かれたがその後再建した。今は移築されている。
大塩の乱の主戦場で、対応の遅れた幕府方はここに主力を結集し、銃撃戦になった。大塩勢は攻めたてられ四散した。
西町奉行所は1619年東町奉行所と共に大坂城京橋口の外側に設けられたが、1724年の大火で消失し、本町橋北東角に移転した。
大坂七墓のひとつ千日墓地があり、刑場があった。大塩の乱で、獄門に処せられた者は塩漬の首をここでさらされた。
千里は大塩門人で、松本乾知とともに『洗心洞箚記』の校訂を行った。乱当時は病気で参加せず、取調べを受けるが処罰は受けていない。門下の逸材。本堂前には藤沢南岳撰文「千里先生碑」がある。
大坂城玉造口与力。砲術の名手。大塩の乱では、東町奉行跡部山城守の指揮下に入って鎮圧に出動、その功により旗本となり、大坂城鉄砲方に就いた。乱に触れた一級史料『咬菜秘記』を残している。並河鳳来の撰文による碑がある。
大塩門弟。広瀬淡窓の威宣園に学び、上坂して中斎に師事する。『洗心洞箚記』に跋文を記している。乱の2年前に死亡した。中斎はその死を惜しみ自ら碑文を撰した。書は松浦誠之の手になる。
境内墓地の奥に墓がある。この墓石の側面と背面の文章を書いたのは昭足の娘の夫の奥並継である。昭足は大塩の縁者で乱に参加したが敗走、大塩父子とともに天草に逃れ、清国からヨーロッパヘ脱出し、後に長崎へ帰国、晩年大坂に戻ったと刻まれている。
山陽は平八郎とも親交を持ち、大塩を「小陽明」と評した。父は芸州広島の春水。5歳までの殆どを大坂で過し、後17才で江戸の昌平坂学問所に学び脱藩、謹慎をくりかえした後、京に落ち着開塾し『日本外史』等数々の書物を著した。
大阪七墓のひとつ。刑場でもあった。1838年9月18日大塩平八郎以下の首謀者が磔刑に処された。ただし、 その時生存していたのは竹上万太郎だけで、他の18名はいずれも塩詰の死体であった。
東成郡沢上江村の豪農に生まれ、大塩門人であった幸太郎は、乱前日に施行札を配り「檄文」を近在の村々に配った。死罪に処せられた。