Я[大塩の乱 資料館]Я
2002.5.13修正
1999.7.26

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大塩の乱関係論文集目次


「河内国大蓮村知足庵正方のこと」

政野 敦子

『大塩研究 第4号』1977.10より転載


◇禁転載◇

          

(一)

 大塩平八郎の乱は、天保八年(一八三七)二月十九日の朝にはじまり夕刻前には鎮圧されたが、行方をくらました平八郎以下へ厳重な探索の網が張られて主脳の者が相次で捕えられた。また挙兵に加わらなくとも何等かのかかわりをもつ者にまできびしい検挙の手がのびて、捕われの身となった者も少なくない。正方もその一人である。

 正方は、河内国渋川郡衣摺(きずり)村(現在の東大阪市衣摺)の出身で、隣村大蓮(おばつじ)村の大蓮寺門外にある隠居所知足庵に寺番として住んでいた。

 大蓮(おばつじ)村(現在の東大阪市大蓮(おおはす)東)は、同市の東南端にあたり、大阪市・八尾市に接している。この地方では「おわつぢ」とも呼んでいたが、「住居表示に関する法律」にもとづいて、昭和四十六年七月五日に「おおはす」と改められたのである。

 大蓮村は、天和のころから徳川氏に属し、その後支配は変転を繰りかえして、天保二年からは永井飛騨守の預所となっていた。『明治二年、明細帳』(もと大蓮村庄屋・芦田慶三氏所蔵)によると、村高一四四八石四升三合、戸数八七軒、うち高持三七軒、無高四一軒とあり(原文ノママ)、惣人数三三六人、男一六五人・女一七一人と、かなり大きな村である。なお後掲の慶応三年宗門御改帳(大念寺所蔵)によると、惣家数七九軒、うち高持二五軒、無高三五軒、寺三軒、庵六軒とあり、人口は男女とも明治二年の明細帳と同数となっている。河内の農村は、綿作地として有名であるが、大蓮村も「当村田高之内木綿作御座候、右田高之内往古より之古畑御座候故、稲作成不申、無拠古来より年々木綿作仕り申候」とあるように古くから綿作が行われていたことが知れる。従って「男ハ耕作仕候、女は作間ニ木綿稼仕候」という綿作地の特徴がみられる。氏神社境内に末社三社あり、その一つ、八大竜王社の由緒について「但シ当村之義ハ、用水不足勝之場ニ御座候ニ付、年々早損ニ出合候ニ付、去ル文政十二丑年十一月ニ京都吉田殿江願上候而、同年より右竜王相祭居申候」とあり、旱害に悩まされていたことが察せられる。村には大蓮寺・真福寺・大念寺の三カ寺があり、そのうち、大蓮寺は京都禅宗妙心寺末、境内には八坂神社・天満宮・稲荷宮の三社を合祀し、門外には柳木庵・知足庵・桃林庵の三庵を有していた。

 正方は

とあるように、正方は、文政九年(一八二六)忰八左衛門に百姓株を譲って剃髪し、大蓮寺隠居所知足庵に留守居として住み込み、先住住職死亡後、後任住職がきまるまで寺番をつとめていた。

 大塩の挙兵が敗北におわり、平八郎は各人随意に立去るように命じ、平八郎以下主だった者十四名は、避難者にまぎれて夜七ツ時ごろ大川の船着場八軒家から船に乗った。一行中の白井孝右衛門と杉山三平も、平八郎父子に従って船に乗った。天満附近を上下しながら船中で行先について相談し、やがて順次上陸したが、孝右衛門と三平は平八郎に従って最後に東横堀新築地から上陸した。人目にかからない場所に寄り集って、なお立退先について相談し、自滅の決心らしい平八郎を門人瀬田済之助や渡辺良左衛門らが幾度もとめてひとまず遠国へ身を隠す心づもりになって、四ツ橋辺まで歩いたところで、平八郎らはこのまゝの姿では見とがめられるであろうと気づいて刀を川へ投げ捨て下寺町あたりまで来たが、そこで孝右衛門と三平は、平八郎から、百姓であるからどのようにでも身を隠して命を保つよう諭され、金五両を与えられた。

 孝右衛門と三平はともに衣摺村の出身である。「文政十一年、大騒動一件諸事控書」および「文政十一子年四月廿六日、永井飛騨守預り所河州渋川郡衣摺村百姓重郎右衛門家内改諸色附帳」(筆者所蔵)によると、今のところ事件の真相は明らかでないが、この事件まで庄屋をつとめていたと推察される政野重郎右衛門が死罪に処せられるという事件が起っている。孝右衛門は、この重郎右衛門の弟で、もと三郎右衛門と称し、文化十年四月河内国茨田郡守口町の白井家へ養子入りしたのである。また、三平(重郎右衛門親類)は、もとの名を熊蔵といい、この村の淀藩稲葉丹後守領分の庄屋をつとめていたが、天保六年六月「庄屋勤中出入の腰押いたし領主役場之申渡不相聞候」(「浪華異聞」)という事件により、二十七歳で庄屋役を罷免させられて村払いになった。彼は、村方を出てから所々を立ちまわり、天保七年九月から十二月までの間は加賀国本泉寺(東本願寺末)に滞在し、その後白井孝右衛門に身のふり方を頼んで、その世話で天保八年二月七日から洗心洞に住み込み、寄宿塾生の世話をしていたのである。

 ところで、平八郎らとわかれた孝右衛門と三平は河内をめざし、十九日夜九ツ時大蓮村大蓮寺隠居所にいた孝石衛門伯父正方のもとにおちのびた。正方は二人の求めに応じて、その夜たまたま止宿していた衣摺村の百姓わきに命じて食事を与えた。

正方のもとで変装した二人は、予定の高野山へ向わず伏見へ走ったが、二十日夜五ツ時すぎ豊後橋の上で召捕 えられた。

 「浪華異聞」にみられるように、正方は、考右衛門と三平に乞われるまま湯づけを食べさせ、銭を貸し、袈裟・頭布・袖なし羽織・観音経一巻を与えたばかりに捕えられ、隠居所知足庵は欠所となったのである。正方は、中追放の判決が下されたが、すでに牢死していた。

(二)

もと大蓮村庄屋であった東大阪市大蓮東の芦田家当主芦田慶三氏は多くの古文書を所蔵されているが、その中 に正方に関するものがある。知足庵が欠所になったときの附立帳と、正方が投獄され、欠所になった前後にわたっての正方に関する入用帳である。芦田氏と東大阪市史編纂委員会の許可を得てこの史料二点を紹介したい。

〈史料1〉

 
 天保九戌年正月
  永井飛騨守殿御預所渋川郡大蓮村知足庵 
    什物并正方我物改附立帳
            中 村 林八郎
            岡 源治右衛門

                永井飛騨守殿御預所

〈史料2〉


知足庵正法掛り入用帳

 この附立帳は天保九年正月としるされていることから、大塩の乱に正方が連坐したために大蓮寺隠居所知足庵が欠所になった事実を知ることができる。入用帳には残念ながら年月の記載がなく、「知足庵正法」とあるのに疑問を抱くが、冒頭に「酉二月廿三日 廿五日迄入用、若江小頭渡し」としるされていることから、騒勤鎮圧後間もなく奉行所の小頭が、若江郡若江村から正方のもとへ捜索に赴いていることがうかがえる。また、文中に「銀三拾四分七厘 戌二月 牢扶持 樋屋吉次郎渡し」「銀五拾八匁四分弐厘 戌七月 牢扶持 樋屋吉次郎相渡し」と牢扶待の支出がみられることや、「銀六拾七匁七分欠所雑物売払代差上ケ」「金三歩 代四拾七匁四分 附立之節御役人様御礼」という欠所に関する収支の記載があることで、正法はおそらく正方に相違ないと考える。

 ところで、正方だとするともう一つ疑問が生じてくる。昭和四十八年六月、私の家の仏檀から、初代妻釈尼妙重の法要軸に巻込まれている「〔   〕九戌歳三月十九日釈正方」としるした紙片を発見して、これは正方のものと思っていたのである。戌七月に年扶待が支出されているとすると正方は三月十九日には生存していたことになる。若しそれなら発見された正方とは誰のことなのだろうか。私は、かつて衣摺村の政野家菩提寺である米泉寺(現在東大阪市衣摺三丁目)を訪ねて遇去帳をみせてもらってしらべたところ、天保九年三月十九日に死亡した正方は見当らなかった。しかし、正方の甥方にあたり、或は生家かもしれない政野家に正方の法要軸紙片がひそかに残されていてもふしぎでないと考えていたのである。

(三)

 大蓮寺住職実山なきあと後住がきまらないまま寺番をしていた正方が牢死し、知足庵も欠所になってから大蓮寺はどのようになったのであろうか。明治六年廃寺にいたるまでの経緯は謎につつまれている。維新政府は明治五年十一月つぎのような太政官布告を出した。

 こうして無檀無住の寺院の廃止を強制したため、堺県では寺院に関する調査を村役人に命じ、明治六年多くの無檀無住寺院を廃止したのである。『東大阪市史近代1』によると、同市域においてこのとき廃止されたとして知られている寺院のなかに、大蓮寺の名があげられている。

 東大阪市大蓮東一丁目、旧大和川の堤あとといわれる道すじの通称「一本木」とよばれるところに楠の大木がそびえている。そこを西へ入ったところに中将姫の供養堂と石塔一基がある。附近は住宅が密集しているが、このあたりが大蓮寺跡といわれる。一本木の道沿いに「十福地蔵尊」があり、この地蔵堂の横側に地蔵尊縁起が河内史談会々長の板東史城氏によってしるされているが、そのなかに大蓮寺は、中将姫に、この地から浄土曼陀羅の蓮茎献上に由緒ある寺であること、明治初年廃寺になったとき墓は長瀬(東大阪市)ありま墓地に移されたとあり、後年ありま墓地から、中将姫の供養碑を持って帰ったといわれるが、遺憾ながら供養堂の東側にならぷ石碑は、上部が違っているようだ。台石には「正文九年、亥十月 第二正法建之」、「昭和四十年八月 谷岡安次郎 ツネ」とあり、これも「正文」という年号は無いので、正しい時期がわからない。「第二正法」について知りたいと思い、谷岡安次郎氏の孫にあたる谷岡美智子氏にたずねたところ全くわからなかった。碑は、もと供養堂に納められていたが、石碑を建物の中へ入れるものではないと云って取り出されたとのこと、この地に家を建てるとき堀削するとおびたゞしい瓦が出たほかは寺の遺物らしいものは見当らなかったという。

 大蓮寺はあとかたもなく消え去ったが、寺の宝物はいまも大念寺(東大阪市大蓮東二丁目六−十一に現存し ている。これを知って大念寺を訪ねると、粟山良全住職が厚意的に迎えてくださって、大蓮寺の宝物を拝観させていただくことができた。

 宝物は、大般若波羅密多経六百巻・本尊の十六善神画像・十六羅漢像である。大般若経は五十巻ずつ木箱に納められている。御経の版は寛政十一年己未(一七九九)五月、愛宕山勝地院六如沙門慈周撰、各巻の末尾には施主の居住地・氏名が記載されているが、大蓮村はいうまでもなく、河内・摂津・京都など広範囲にわたり、これによっても大蓮寺の住時が偲ばれる。十六善神は、箱書きによると、鎌倉峙代の名絵師託磨為遠(勝智法印)筆で、十六羅漢は兆殿司筆とある。これらは、廃寺になったとき、村の旧家島田氏に預けられたが、同氏の依頼で大念寺に保管されるようになった。最近まで、年に一度、本尊の十六善神画幅を掛け、大般若経を転読されていたとのことである。

 なお、大蓮村の『慶応三年卯三月 宗門人別御改帳』(大念寺所蔵)には、大蓮寺に関してつぎのように記載されている。

 これによっても大蓮寺ならびに隠居所や庵は無住のまま衰退の道をたどったと推察される。

 『浪華異聞』に「大蓮寺住職取極候迄寺番之儀同寺法類大坂生玉法雲寺 頼受」とある法雲寺を訪ねてみた。現在の大阪市南区中寺町にあたり、同寺はやはり禅宗京都妙心寺末で、大蓮寺の法類であることがわかった。住職杉山宗玄氏に会い、史料を求めたが、寺歴によって十四世閑田座元住職が、正方に大蓮寺の寺番を依頼したことが判明しただけで、大蓮寺や知足庵の謎を解く手がかりは得られなかった。

 芦田家文書によって、正方の身辺のことについて多少なりとも事実を知ることができたが、正方は、はたしていつ獄死したのであろうか。また正方の忰八左衛門は『浪華異聞』によると「行方相知不申候」とあり、すでに拙稿『歴史研究』第一八一号「大塩平八郎と河内国衣摺村」に発表した市大郎・儀次郎・孝右衛門・三平らのこともあわせて、血縁の子孫として解明したいことはきわめて多い。今後とも探究への努力を惜しまないが、多くの方々の御教示・御援助を切にお願いする。

(附記) 芦田家文書のうち『文政十三年、大蓮村明細帳』も関連史料として貴重なものと考えられるが、都合により閲覧できなかった。芦田慶三氏ならぴに大念寺住職粟山良全氏および東大阪市史編纂室・市史編纂委員会の御協力を賜わり深く感謝いたします。 
           (大阪府中河内府民センター)  


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