Я[大塩の乱 資料館]Я
2002.4.29修正
2000.2.23

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大塩の乱関係論文集目次


「屋 久 島 を 訪 ね て
−大塩の乱関係者調査記−」

政野 敦子

『大塩研究 創刊号』1976.3より転載


◇禁転載◇

 白砂の永田浜(鹿児島熊毛郡屋久町永田)を眼下に、紺青の海原を見渡すところに墓地がある。山の熱帯樹は青々としげり、磯のかおりを運んでくる風もやわらかで真冬とは思われない。

 墓地のほゞ中央に、ひときわ壮麗な、計屋家霊堂がある。大塩の乱に加わった門人、摂津国東成郡般若寺村庄屋橋本忠兵衛の子松次郎(隆門院随縁日禮信士)はここに眠っている。松次郎の曾孫にあたる計屋秀美氏の読経の声が静かに流れた。秀美氏長男、つまり松次郎玄孫の晃成さんと、感無量で合掌した。晃成さんのお父さんは読経を終わるとふりむいて、「あなた方が来られたことを報告しました。」と言われた。やはり乱に参加した者の子孫の縁で、私は、白井孝昌氏と共に晃成さんに伴われて屋久島に渡り、松次郎たちの墓前にぬかづくことができた。一九七六年一月十七日のことである。

 松次郎の孫ヨシさんの話によると、かれは十四歳のとき、屋久島に流された。

 「松次郎は長持二つと、桐の黒ぬりのタンス一さおを持って、稚児頭で袴上下(かみしも)をつけて上陸したとな。はじめ宮の浦にきたれば、そこにおかれんから一湊(いっそう)さにやったれば、一湊にも港があるからおかれんて、永田のへんぴなところへやられたとか」と。

 永田は、宮の浦港から車で約五十分を要する島の西北部の海辺にある。屋久島は、九州の最高峰宮の浦岳をはじめ、高山が多く、急峻な山が海に迫り、平地が少ない。このけわしい山また山を、少年松次郎はどのようにして永田まで来たのであろうか。永田にある法華宗顕寿寺に養われ、手習師匠をし、浄瑠璃もやり、村人に敬愛されて成人し、十七歳のとき計屋家へ養子入りした。於染と結婚したが、松次郎が計屋周助の養子となった上、於染を妻に迎えたのか、於染は周助の娘であったのか、この点は明らかでない。

 松次郎の養父周助が元祖とされていたが、墓所でしらべてみると、計屋周太郎の墓を、その子周助が、また、周太郎妻こいんの墓を養孫橋本松次郎が建てていることから、周太郎が初代と考えられる。松次郎の子周之助と、その妻イワの間に六人のこどもが生まれ、長男秀一の長男秀美氏(六二歳)と妻トミヱさん(五九歳)および秀一氏の末娘ヨシさん(八○歳)の三人が、松次郎が暮らした屋敷にいまも住んでいる。島の若者は大抵故郷を出て働いているが、秀美氏長男の晃成さんも志を立てて大阪に出て事業を経営している。

 松次郎はどのような性格であったのだろうか。ヨシさんは、「わたしはじいさんの死んだ翌日の明治二九年旧の十一月七日に生まれたからよ、じいさんの生まれかわりだろちゅて。じいさんの生まれ代りでじいさんに似て短気であるちゅて」と語られた。

 墓地の近くに、松次郎が育てられたという顕寿寺がある。計屋秀美氏は二年前からこの寺の住職をつとめている。第二次大戦後寺は二度も台風で流された、これは松次郎がつくったつるかめの池を埋めたことによる龍神さんのたたりだと村人は云っているそうだ。寺に案内されて行ってみると、裏庭につるかめの池の名残りがあり、それを蔽うようにバナナの木が大きな葉をひろげていた。

 松次郎は、明治の世になってから大阪に帰るようにすすめられたが、島を去らないで、明治二九年旧十一月六日、七十歳で没した。

 永田の計屋宅の納戸に、いまも、松次郎が持ってきた長持とタンスがある。道中長持とよばれる大きい長持である。タンスは正面表を張りかえたということである。松次郎が使っていたという金だらいは、戦時中空襲のときなくなったそうで、遺品といえば、丸い盆と、寺で貰ったらしい軸一巻だけのようである。

 永田にはもう一人が遠島になっている。木村司馬之助の子司歌之助で、子孫は四代目日高団寿氏である。その長男俊一氏が本家にいる。

 日高家を訪ねて「家宝」と記した過去帳を見せてもらった。主な事項を列記してみると、

 日高家の墓は松次郎と同じ墓地にある。

 司歌之助の墓碑には碑文が刻まれているがこの島では風化がはげしくて、大半は文字が消えてしまっている。断片的に判読した文を拾ってみた。

正面には、「釈順直」とあり、ついで

 察してみると、遠島になった事情が記されていると考えられる。

 計屋ヨシさんが
 「吉田に一人きさじというのがいて、私たちが生まれたときまで、そのじいさんは生きとったそうな」と話してくれたが、はじめは誰のことかわからなかった。しかし、いろいろ話をしているうちに、これは柏岡源右衛門の子喜佐太郎のことであろうと思う。つまり、喜佐太郎の上だけとって、じいさんを略して「喜佐じ」になってしまったものらしい。そういえば、松次郎のことも松じ、松じとも呼んでいたという。

 吉田で菊浦仁助氏のお世話になり、森之助という古老にお会いして、墓にも同行してもらったが、遂に手がかりは得られなかった。

 島の東南部、原にも赴いて、「大坂流人、天保十年、田中伊右衛門」の、大塩の乱との関係をさぐろうとしたが、この伊右衛門の子孫という日高和夫氏やその従弟渉氏および永昌寺久木田住職の協力もむなしく解明できなかった。

 今回の調査を第一段階として、今後さらに調査をすゝめて、屋久島遠島の人びとのことを明らかにしていきたいと思う。

 おわりにこの調査にあたり、計屋晃成氏と父君計屋秀美氏をはじめその御一族に多大の御協力を賜わり深く感謝いたします。

             (関係者子孫・公務員)


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