生涯に一度は小説を書いてみたい―と、誰もが思い抱く。作家・松原誠さん(六九)は定年後、小説業に取り組み、見事に歴史文学賞佳作入選して、月内にも新刊『天討 小説大塩平八郎の乱』が発刊される。江戸時代の陽明学者・大塩平八郎は作家・司馬遼太郎も避けて取り上げなかった悲劇的人物だが、真正面から取り組み、まとめ上げた。小説家修業法と大塩研究を聞いた。(貞廣)
松原さんは元NHKの放送記者。政治・社会ダネを追いかけて多忙なジャーナリスト生活を送ってきたが、三年早く定年退職して、「小説を書いてみたい」という念願を達成しようと小説業に取り組んだ。
まず文章読本から
文章修業の手始めに著名な「文章読本」を片っ端から読んだ。古くは谷崎潤一郎、川端康成、三島由紀夫など。このうち参考になったのは川端康成で「気にいった作家の文章を始めから終わりまで大学ノートに丸写し、何度も筆写して読み返す」とあった。そこで『伊豆の踊子』をテキストに筆写した。歴史時代小説では藤沢周平作品の中篇に取り組んだ。五〜六回写すのに一カ月かかったが、川端と藤沢を暗記するほどにマスターした。
そして小説を書くからには商品になるものでなければと、文芸誌が主催する文芸・文学賞を目指してチャレンジ。応募締め切り日の年間カレンダーを作って、片っ端から投稿しようと決めた。
六十歳の誕生日から書き始めたが、五回投稿していずれも落選、六回目に佳作を受賞した。挑戦五回のうち三回が、大塩平八郎をテーマにしたもの。
松原さんが大塩に興味を持ったのは、高校時代に教科書で習ってから。最期は匿まわれた商家の離れ屋に火をつけ、息子と共に焼身自殺した大塩。だが、匿った商家や使用人にいたるまでお仕置きを受けた。松原さんの実家は神田小川町の洋服小売商で、住み込みも合めて従業員は二十人近くいた。もし、大塩事件のようなことが我が身に起こったらどうだろう。従業員まで巻き込むとはとんだ迷惑だ、と子供心に憤慨した。
謀反人を匿ったため商家は取り潰し、主人は獄門刑(死刑の上首さらし)、嫁は遠島。従業員も刑を受けた。一体、正義とはなにか。そのために多くの犠牲者が出た。この悲劇をいつの日か小説に書きたいと松原さんは密かに思ったのだ。
郷土史家と知友に
三十年間のサラリーマン生活を終え、やっと本格的に大塩と取り組む時が来た。図書館通いや歴史書を購入して調べるうちに、大阪に大塩の菩提寺・成正寺があることを知った。普通反逆者には菩提寺はない。しかも寺の名前が偶然にも松原さんの本名と同じ、奇妙な縁だった。さらに同寺に「大塩研究会」があり郷土史家、大学教授、在野の歴史研究家ら会員二百人が活動している。会報も発行して、営々と例会を開いている。一歴史人物をテーマに、かくも熱心に研究する大阪の風土に感動した。
三つの謎解き
松原さんは大塩に三つの謎を感じていた。一つ目は、筆頭与力昇進で「猟官運動(官職を得ようと工作すること)」をしたこと。作家・司馬遼太郎が「さわやかではない」といって大塩を取り上げなかったのはこの点だ。研究会会員の一人が、「なぜ大塩をとりあげないのか」と司馬に嘆願したが、一蹴された。二つ目は、大塩が乱に矢敗した後、厳戒の街中を潜り抜け、どのように美吉屋五郎兵衛の屋敷に入ったのか。三つ目は、飢饉の農民を救出しようと乱を起こしたのに、頼りにしていた農民はなぜ反乱に立ち上がらなかったのか。
この三つの謎を解明しないことには小説が進まなかった。作家で詩人の佐藤春夫は「文学とは根も歯もある嘘だ。だから感動を与える」と言った。松原さんのモットーでもある。この謎解きのために再三、大阪に出かけて郷土史家や研究会会員を訪ねて一つ一つ解決した。猟宮運動の誤解、今も残る太閣下水道の発見、裏切りにあい、乱が失敗したこと。これらは近年発見された史料と合わせて、松原さんの熱い思いと情熱を込めた小説に詳述されている。『天討小説大塩平八郎の乱』は新人物往来社から発刊される。
《大塩平八郎》 江戸後期の陽明学者。大坂奉行所与力。私塾洗心洞で子弟教育にあたる。天保七年の飢饉で奉行所に救済を求めたが容れられず蔵書を売って窮民を救った。その後、幕政を批判し、門弟らと共に決起したが失敗、焼身自殺した。
| 大阪市北区末広町1−7 成正寺内 電話06・6361・6212
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【松原誠さんのプロフィール】 本名・古屋成正(ふるやしげまさ)昭和7年東京・神田小川町生まれ。早稲田大卒、34年9月NHK入社、放送記者として勤務。平成元年4月退社。同9年『天命を奉じ天討致し侯』で歴史文学賞佳作入選。以後、長編歴史小説を執筆。好きな言葉は「ゆっくり歩めば遠くまで行ける」「志あれば道あり志無き所に道なし」。 【写真 最終校正に追われる松原さん 略】
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