Я[大塩の乱 資料館]Я
1999.11.10
2000.5.15訂正

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大塩の乱関係論文集目次


大 坂 加 番 の 一 年

―「豊城加番手挫」より―

松尾美恵子

『大阪春秋 第34号』
(大阪春秋社)1982.11より転載


◇禁転載◇

 江戸時代、大坂城は幕府直轄の番城で、城代(一人)・定番(二人〉・大番(二組)・加番(四人)が士卒を率いて警備にあたっていた。このうち城代と定番は定置の職であり、大番と加番は一年交代の勤番制であった。

 大坂在勤の幕府役人の首班である城代は、老中・所司代につぐ重職で、大坂城の守衛とともに西国大名の動静を監視する任務も帯びていたといわれ、おおむね五〜一〇万石級の譜代大名から選任される例であった。四品に叙され、役知の一万石を給された(但し文化十二年〔一八一五〕以降)。副城代格の定番は京橋口定番・玉造口定番の二名で、一〜二万石の譜代犬名から任じられた。延享二年(一七四五)以降、役料三〇〇〇俵を給された。各定番に与力に三〇騎・同心一〇〇人が付属していた。城代・定番は妻子を伴なって赴任することが許されたが、本人は通常城内の城代・定番屋敷に起居し、妻子は城外に与えられた下屋敷に置かれた。

 大番は幕府の直属軍事力の中枢で、すべて一二組、一組は番頭一人、組頭二人、番士五〇人で編成され、一組に与力一〇騎・同心二〇人が付属していた。二組ずつが一年交代で大坂城及び二條城の守りにつき、八組は江戸城の警備にあたっていた。役高(享保八年〔一七二三〕制定)は大番頭が五〇〇〇石高、組頭が六〇〇石高、番衆が二〇〇俵高で、大坂・二條の在番のさいは本高の一倍物成の合力米が給された。大坂在番の大番二組はそれぞれ東大番、西大番として勤務した。

 加番は正規の勤番者である大番の加勢として置かれ、山里加番(一加番)、中小屋加番(二加番)、青屋口加番(三加番)、雁木坂加番(四加番)として城内各所に配された。一〜四万石の小大名の任であり、役高の一倍物成の合力米が与えられたので、財政難の小大名は願ってこの役を勤めた。延享三年(一七四六)に制定された部署別の役高と選考範囲は第1表の通りである。
 

 第1表 大坂加番の役高と選考範囲(延享3年制定)

 山里加番の格式が一番高く、「外様」は三万石でも中小屋加番を勤めたことが知られよう。なお「御譜代」は江戸城帝鑑間、「外様」は柳間、「詰衆」は雁間、「詰衆並」は菊間縁頬に座席を有する大名であることを意味している。詳細は拙稿「公儀勤役の選考方法について−大坂加番の場合−」(徳川林政史研究所「研究紀要」昭和五十年度)を参照されたい。

 以上、大坂城の守衛体制についてその概略を述ぺたが、次に城代以下の守衛分担を示しておく。

 ところでこれら大坂城守衛の人々の勤務・生活ぶりについては、これまでほとんど明らかにされていない。そこで最近採訪する機会を得た但馬豊岡京極家文書中の大坂加番関係史料から、その一端をさぐってみたい。すなわち弘化二年(一八四五)から三年にかけて青屋口加番を勤めた小笠原信濃守(貞幹・播麿安志・一万石)の記録「豊城加番手控」を通じて加番大名の一年をたどってみよう。なおこの史料は嘉永四年(一八五一)に京極飛騨守(高厚・但馬豊岡・一万五〇〇〇石)が青屋口加番を勤めるにあたり、小笠原氏より借り受け、書写したものと推測される。

青屋口小屋平面図(京極家文書) 【略】

 信濃守の記録は弘化二年二月朔日、御用召の老中奉書到来に始まる。翌日登城した信濃守は、「同様御用召」の三大名とともに老中より「当秋大坂加番」の命を受けた。このとき上席の稲垣摂津守に次の書付が手渡された

(傍註筆者)。

 小笠原信濃守は水野日向守と交代して青屋口加番を勤めることとされたのである。六月二十一日に至り、酒井・小笠原・井上の三人は評定所に出頭し、誓詞血判の手続をした(稲垣摂津守は在所より大坂へ赴任する許可を得て、すでに江戸を出立、警詞の手続も済ませていた)。参考までにその文言を次に紹介しておこう(敬意を示す欠字は一字アキ、平出は二字明キ)。

 
 七月朔日、暇乞いのため登城、拝領物を賜わった。また十三日、信濃守は月番老中宅に赴き、仮養子願を提出している。これはまだ定まった跡継ぎのいない大名が、参勤交代によって帰国したり、公用で江戸を離れるときに、仮に養子を選定して、万一国元や旅先で死亡したときに、この者に家督相続を仰せ付けられるよう願い出ておくもので、大名の御家断絶を防ぐ効果があった(中田薫「徳川時代の養子法」『法制史論集』第一巻所収)。

 さて加番大名は七月十五日〜十八日の四日間に順々に江戸を立つ例であった(道中の混雑を避けるため)が、信濃守は十七日に江戸を立ち、晦日に大坂に着いている。入城までの数日は北久太郎町三丁目の旅宿菱屋十作方に逗留、ここで宿の主人、三町人・御太鼓坊主らの挨拶を受けている。三町人とは尼崎又右衛門・寺島藤右衛門・山村与助をいう。いずれも徳川氏と深い縁故があり、つねに大坂城に出入して、江戸から到来する奉書の開封、諸職人の統制等、城内の諸用を弁じていた(『大阪市史』第一巻、二九五頁)。

 八月二日は仮御城入といって加番四人が揃って登城、城代屋敷において、城代・定番・大番頭・下り加番・大坂目付らと顔を合わせ、交代の打ち合わせをした。加番の交代は八月三日〜六日に、山里・青屋口・中小屋・雁木坂の順に行なわれる例であり、青屋口加番の小笠原信濃守は八月四日に水野日向守と交代した。当日、信濃守率いる人数は七ツ半時(午前五時)に旅宿を出立、大手門の北方御堀端に待機した。明六ツ(午前六時)の太鼓を合図に信濃守は駕籠から出て床机に腰かけ、水野日向守の人数が出てくるのを待った。そして城を出た日向守と挨拶をかわしたあと、城内の指示によって惣人数を繰入れさせ、最後に信濃守が入城した。青屋口の小屋までは城代よりの案内がついた。諸方に挨拶を済ませて信濃守が小屋に戻ると、菓子一折、こんろ一つ、どびん一つ、茶腕五つが置かれていた。水野日向守の置土産であった。当時の武士の奥床しい心づかいのほどがしのばれよう。    

 小笠原信濃守の大坂城青屋口加番としての生活はこうして始まった。しかしその後の彼の手記に、青屋口警備に関する記事は出てこない。尤も実際に青屋口番所に詰めていたのは家臣達であり、大名自身は持場を巡回する位で、とくに記録にとどめる事柄はなかったのかもしれない。信濃守の記録で目につくのは、江戸から宿継の奉書が到来すると、城代から連絡があり、四人の加番が揃って城代屋敷に出向き、江戸表の様子を伺い、城代に挨拶を述べていることで、少ない時で月に二度、多い時は五度に達している。江戸・大坂間の連絡が幕府にとって重要であったことはいうまでもないが、加番の動きを見るとかなリ儀礼化されている。なお加番に月番があって、弘化ニ〜三年は第2表のように勤めている。例えば城代よりの連絡はまず月番のところへ来て、そこから順々に他の加番へ伝達することになっており、また月に一度月番の加番の小屋に寄り合う憤例があって、十月の青屋屋口の初寄合のさいは昼食・菓子などを出し、小屋内の馬場で乗馬を催している。
 
 
   第2表 大坂加番月番表(弘化二〜三年)  

 八月・九月は行事が多く、八月十八日には城代より各加番に達書が渡されている。しかし手控にその内容は記されていない。八月二十三日には幕府破損奉行による小屋向見分が行われている。九月六日は目付の交代日で城代屋敷に定番・大番頭・加番・町奉行・堺奉行・御船手が集合し、各役々に「上意」が伝えられている。九月九日は重陽の節句で、加番も城代以下諸役人とともに「本丸に参上」している(三月三日・五月五日・七月七日の各節句、八朔も同様)。

 加番が城外に出ることは原則としてできないが、寺々への参詣は例外であった。しかしそれも将軍の忌日に特定の寺(天王寺・専念寺・建国寺)へ詣でることになっており、義務的なものであった。信濃守自身は風邪・不快・足痛等の理由であまり熱心に参詣していない。但しその際も「御城内之儀ハ押而相勤」と記している。

 正月元旦は城代へ年頭の挨拶のあと、城代・定番・大番頭とともに本丸に参上、熨斗と昆布を頂戴する儀式が行なわれた。江戸では二月に次の加番が決まり、そのことを知らせる奉書が二月十五日に着いている。なお二月から三月にかけて、主に山里の馬場でしばしば打毬が催されている。打毬には騎馬打毬と徒歩打毬とがあるということであるが、彼らの場合は乗馬訓練をかねての騎馬打毬であったと思われる。

 三月十八日、大番頭九鬼式部少輔、山里加番稲垣摂津守、青屋口加番小笠原信濃守一行が堺・住吉方面を騎馬で巡見している。明六ツ時(午前六時)に出発、寿法寺――安倍野村印山寺――境北之口高井屋――戎嶋――(小弁当所・浜役所――浜辺――念仏寺――常楽寺――妙国寺――安立町――笠松――住吉社――住吉新家――(弁当所・三文字屋)――天下茶屋――中道筋――下寺町遊行寺というコースで巡見し、タ七ツ半時(午後五時)に帰着している。あいにく「終日大雨」、昼弁当は山里が、小弁当は自分が用意したと信濃守は書いている。なお五月十日にも同一メンバーで堺辺を巡見している。

 七月八日本丸御殿を拝見、二十五日には破損奉行の小屋向見分が行なわれ、交代に備えた。そしていよいよ八月、例の如く二日に仮御城入、四日に後番の内藤因幡守(政民・陸奥湯長谷一万五千石)と交代し、一路江戸への帰途に着く。八月十六日に帰着し、十七日仮養子願返却、九月朔日に登城して「帰之御礼」を「申上」げ、すべての日程を終えるのである。

 さて、小笠原信濃守の大坂城守衛の一年はまことに平穏無事の明け暮れであったといえよう。しかし大坂城の「泰平」はこののち長くは続かず、十数年後、長州征伐の大本営となり、十四代将軍家茂がこの城で死去したことは周知の事実である。二〇〇年余りの伝統を誇った大坂城の守衛制度も大幅な改変を余儀なくされたことはいうまでもない。

        (徳川林政史研究所研究員)


 松尾美恵子氏は、1999年11月現在、学習院女子大学教授。

 著作は、この論文の中で触れているものの他に、「大坂加番制について」(『研究紀要 昭和49年度』徳川林政史研究所)などもあります。
 また、「大坂加番制について」は、『金鯱叢書 第2輯』(徳川黎明会 思文閣発売1975)、「公儀勤役の選考方法について」は『金鯱叢書 第3輯』(同 1976)にも収録されています。


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