松尾美恵子
『大阪春秋 第34号』
(大阪春秋社)1982.11より転載
大坂在勤の幕府役人の首班である城代は、老中・所司代につぐ重職で、大坂城の守衛とともに西国大名の動静を監視する任務も帯びていたといわれ、おおむね五〜一〇万石級の譜代大名から選任される例であった。四品に叙され、役知の一万石を給された(但し文化十二年〔一八一五〕以降)。副城代格の定番は京橋口定番・玉造口定番の二名で、一〜二万石の譜代犬名から任じられた。延享二年(一七四五)以降、役料三〇〇〇俵を給された。各定番に与力に三〇騎・同心一〇〇人が付属していた。城代・定番は妻子を伴なって赴任することが許されたが、本人は通常城内の城代・定番屋敷に起居し、妻子は城外に与えられた下屋敷に置かれた。
大番は幕府の直属軍事力の中枢で、すべて一二組、一組は番頭一人、組頭二人、番士五〇人で編成され、一組に与力一〇騎・同心二〇人が付属していた。二組ずつが一年交代で大坂城及び二條城の守りにつき、八組は江戸城の警備にあたっていた。役高(享保八年〔一七二三〕制定)は大番頭が五〇〇〇石高、組頭が六〇〇石高、番衆が二〇〇俵高で、大坂・二條の在番のさいは本高の一倍物成の合力米が給された。大坂在番の大番二組はそれぞれ東大番、西大番として勤務した。
加番は正規の勤番者である大番の加勢として置かれ、山里加番(一加番)、中小屋加番(二加番)、青屋口加番(三加番)、雁木坂加番(四加番)として城内各所に配された。一〜四万石の小大名の任であり、役高の一倍物成の合力米が与えられたので、財政難の小大名は願ってこの役を勤めた。延享三年(一七四六)に制定された部署別の役高と選考範囲は第1表の通りである。
第1表 大坂加番の役高と選考範囲(延享3年制定)
山 里 | 中小屋 | 青屋口 | 雁木坂 | ||
役 高(単位千石) | 27 | 18 | 10 | 10 | |
選 考 範 囲 | 本 高 (単位千石) | 27〜50 | 18〜26 (外様は30) | 10〜17 | 10〜17 |
座 班 | TD ALIGN="center">御譜代御譜代 詰 衆 詰衆並 (外様) |
御譜代 外 様 詰衆並 |
御譜代 外 様 詰衆並 |
註「大坂加番之留」(国立公文書館内閣文庫蔵)により作成 |
以上、大坂城の守衛体制についてその概略を述ぺたが、次に城代以下の守衛分担を示しておく。
城 代 | 二之丸大手門の内外、南仕切門と北仕切門、大坂城全域の警衛を総監 |
京橋口定番 | 二之丸京橋口の内外、北の外曲輪筋鉄門 |
玉造口定番 | 二之丸玉造口の内外、東中仕切門 |
大 番 | 本丸、二之丸南曲輪南東両仕切内を東西で分担 |
東大番頭所属 | |
山里加番(一加番) | 山里丸、極楽橋外二之丸西仕切門と東仕切門 |
青屋口加番(三加番) | 二之丸青屋口 |
西大番頭所属 | 中小屋加番(二加番) 雁木坂加番(四加番) | 二之丸雁木坂を交代で守衛 |
信濃守の記録は弘化二年二月朔日、御用召の老中奉書到来に始まる。翌日登城した信濃守は、「同様御用召」の三大名とともに老中より「当秋大坂加番」の命を受けた。このとき上席の稲垣摂津守に次の書付が手渡された
(傍註筆者)。
当 秋 大 坂 加 番 | ||
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山 里 | (信宝・出羽上山・三万石) 松平中務少輔代 |
役高二万七千石 (長明・志摩鳥羽・三万石) 稲垣摂津守 |
中小屋 | (正和・上総大多喜・二万石) 松平備中守代 | 役高一万八千石 (忠恒・上野伊勢崎・二万石) 酒井志摩守 |
青屋口 | (勝進・下総結城・一万八千石) 水野日向守代 | 役高一万石 (貞幹・播磨安志・一万石) 小笠原信濃守 |
雁木坂 | (政民・陸奥湯長谷・一万五千石) 内藤因幡守代 | 役高一万石 (正域・下総高岡・一万石) 井上筑後守 |
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起請文前書 一 今度大坂御加番就被 仰付候、万事 御為第一奉存 御後闇儀聊以仕間鋪、 弥重 公儀御奉公油断仕間鋪候、御一門ヲ始諸大名諸傍輩と奉対 御為 以悪心申合、一味仕間鋪候事 一 以御威光奢たる義仕間鋪候、勿論奉対 御為、相番中ハ不及申、御城代御 定番両番頭衆并町奉行衆と中悪鋪不仕、万事遂相談、私之申分ヲ不立、 御為能方ニ付可申事 一 御番之儀心之及程者入念、即遣之下々迄堅申附、勤番可仕候事 右之條々雖碓為一事於致違犯者 罸文 弘化二年六月廿一日 井 上 筑後守正域(花押) 小笠原信濃守貞幹(花押) 酒 井 志摩守忠恒(花押) (老中) 青山下野守殿 (大目付) 堀伊賀守殿 |
さて加番大名は七月十五日〜十八日の四日間に順々に江戸を立つ例であった(道中の混雑を避けるため)が、信濃守は十七日に江戸を立ち、晦日に大坂に着いている。入城までの数日は北久太郎町三丁目の旅宿菱屋十作方に逗留、ここで宿の主人、三町人・御太鼓坊主らの挨拶を受けている。三町人とは尼崎又右衛門・寺島藤右衛門・山村与助をいう。いずれも徳川氏と深い縁故があり、つねに大坂城に出入して、江戸から到来する奉書の開封、諸職人の統制等、城内の諸用を弁じていた(『大阪市史』第一巻、二九五頁)。
八月二日は仮御城入といって加番四人が揃って登城、城代屋敷において、城代・定番・大番頭・下り加番・大坂目付らと顔を合わせ、交代の打ち合わせをした。加番の交代は八月三日〜六日に、山里・青屋口・中小屋・雁木坂の順に行なわれる例であり、青屋口加番の小笠原信濃守は八月四日に水野日向守と交代した。当日、信濃守率いる人数は七ツ半時(午前五時)に旅宿を出立、大手門の北方御堀端に待機した。明六ツ(午前六時)の太鼓を合図に信濃守は駕籠から出て床机に腰かけ、水野日向守の人数が出てくるのを待った。そして城を出た日向守と挨拶をかわしたあと、城内の指示によって惣人数を繰入れさせ、最後に信濃守が入城した。青屋口の小屋までは城代よりの案内がついた。諸方に挨拶を済ませて信濃守が小屋に戻ると、菓子一折、こんろ一つ、どびん一つ、茶腕五つが置かれていた。水野日向守の置土産であった。当時の武士の奥床しい心づかいのほどがしのばれよう。
加 番 | 月 番 | |||
山 里 | 八 | 十二 | 四 | 七 |
中小屋 | 九 | 正 | 五 | 八 |
青屋口 | 十 | 二 | 閏五 | |
雁木坂 | 十一 | 三 | 六 |
八月・九月は行事が多く、八月十八日には城代より各加番に達書が渡されている。しかし手控にその内容は記されていない。八月二十三日には幕府破損奉行による小屋向見分が行われている。九月六日は目付の交代日で城代屋敷に定番・大番頭・加番・町奉行・堺奉行・御船手が集合し、各役々に「上意」が伝えられている。九月九日は重陽の節句で、加番も城代以下諸役人とともに「本丸に参上」している(三月三日・五月五日・七月七日の各節句、八朔も同様)。
加番が城外に出ることは原則としてできないが、寺々への参詣は例外であった。しかしそれも将軍の忌日に特定の寺(天王寺・専念寺・建国寺)へ詣でることになっており、義務的なものであった。信濃守自身は風邪・不快・足痛等の理由であまり熱心に参詣していない。但しその際も「御城内之儀ハ押而相勤」と記している。
正月元旦は城代へ年頭の挨拶のあと、城代・定番・大番頭とともに本丸に参上、熨斗と昆布を頂戴する儀式が行なわれた。江戸では二月に次の加番が決まり、そのことを知らせる奉書が二月十五日に着いている。なお二月から三月にかけて、主に山里の馬場でしばしば打毬が催されている。打毬には騎馬打毬と徒歩打毬とがあるということであるが、彼らの場合は乗馬訓練をかねての騎馬打毬であったと思われる。
三月十八日、大番頭九鬼式部少輔、山里加番稲垣摂津守、青屋口加番小笠原信濃守一行が堺・住吉方面を騎馬で巡見している。明六ツ時(午前六時)に出発、寿法寺――安倍野村印山寺――境北之口高井屋――戎嶋――(小弁当所・浜役所――浜辺――念仏寺――常楽寺――妙国寺――安立町――笠松――住吉社――住吉新家――(弁当所・三文字屋)――天下茶屋――中道筋――下寺町遊行寺というコースで巡見し、タ七ツ半時(午後五時)に帰着している。あいにく「終日大雨」、昼弁当は山里が、小弁当は自分が用意したと信濃守は書いている。なお五月十日にも同一メンバーで堺辺を巡見している。
七月八日本丸御殿を拝見、二十五日には破損奉行の小屋向見分が行なわれ、交代に備えた。そしていよいよ八月、例の如く二日に仮御城入、四日に後番の内藤因幡守(政民・陸奥湯長谷一万五千石)と交代し、一路江戸への帰途に着く。八月十六日に帰着し、十七日仮養子願返却、九月朔日に登城して「帰之御礼」を「申上」げ、すべての日程を終えるのである。
さて、小笠原信濃守の大坂城守衛の一年はまことに平穏無事の明け暮れであったといえよう。しかし大坂城の「泰平」はこののち長くは続かず、十数年後、長州征伐の大本営となり、十四代将軍家茂がこの城で死去したことは周知の事実である。二〇〇年余りの伝統を誇った大坂城の守衛制度も大幅な改変を余儀なくされたことはいうまでもない。
(徳川林政史研究所研究員)
松尾美恵子氏は、1999年11月現在、学習院女子大学教授。
著作は、この論文の中で触れているものの他に、「大坂加番制について」(『研究紀要 昭和49年度』徳川林政史研究所)などもあります。
また、「大坂加番制について」は、『金鯱叢書 第2輯』(徳川黎明会 思文閣発売1975)、「公儀勤役の選考方法について」は『金鯱叢書 第3輯』(同 1976)にも収録されています。
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