Я[大塩の乱 資料館]Я
2000.1.28
2000.2.19訂正

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大塩の乱関係論文集目次


「大 塩 中 斎 の 逸 話」 (演説筆記)

松尾清次郎

『陽明学 第18号』 陽明学会 1910.4 所収



今日は、本会の月次会でございまして、私の如き者が、学者諸君の前に於て、殊に陽明学の大家とも云はれる、大塩中斎先生の逸話を、お話し申上げると云ふことは、甚だをこがましい次第でございますが、実は私が子供の時分に、老人より確に聞いた事がございまして、其事を東先生 *1 に申上げた所が、それは是まで余り聞かない話しであるから、一つどうか月次会に出で、逸話として話して貰ひたい、斯う云ふやうなことでございまして、私は甚だ不弁でございまして、能く諸君にお分りになるやうに申上げらるゝや否やは、保証が出来ませぬがマア少しお話を致して見ませう。

是に就きましては、島本仲道先生の著しました、青天霹靂史にも此事は載せてない。それから、高瀬先生の著述でございましたか「日本の陽明学」、是にも此話は無い。それから又偉人の研究と言ふ書物の大塩平八郎の伝と云ふものにも、此話は無い。それから近来出来ましたもので、丁度今年の初に出版になつた、幸田先生の著されました「大塩平八郎」と云ふ書物も読んで見ましたが是にも此話は一向無いので、いつか是は、私が親しく老人より聞いた所を書き綴つて、幸田先生或は高瀬先生などに、申上げて見たいと、実は考へて居つたのてす。

所が、東先生から、それは一つ諸君に申述べて見るが宜からうと云ふことで、幸ひ筆記も出来ることでございますから、誠に好都合と存じまして、■陋を顧みず、お話し申上ぐることに致しましたが、若も此逸話が、果して事實であるならば、中斎先生が、大阪の市政の上に就いて、大に力を尽されて、非常な功績を挙げられた所の、其一番の手初めであると云ふ事柄てございますから、大きに御参考にもならうかと考へます。

■の字

此事をお話し申上ぐるに就きましては、まづ順序として、少し私の子供の時分の事を申上げなければなりませぬが、実は私は大阪生れの者でございまして、大阪の天満宮の近所に、小野言昌と云ふ外科医者がございましたが、私は、幼少の頃――十五六の時分から、其医者の所に、学僕を致して居つたことがございます。固より漢法医でございますから、私は薬籠を背負つて老人の供をして病家先を歩いたのでございます。

当時其老人は、もう殆七十近い齢でございましたが、大層長生な人で御一新後まで生きて居つて、九十幾歳かで亡くなられた。私が始終其老人のお供をして歩いて居ります中に図らす大塩先生の宅趾の事に就いて、実話を聞き、それから色々と先生の逸話を承つたのてございますが、それは即ち、茲に掲げました図に書いてある、古井戸の事でございます。

御一新前のことでありますから其時分はまだ天満与力と云ふものがございましたが、大阪の天満与力と申しますと、御承知もございませうが、西与力が三十人、東与力が三十人、東与力は東奉行に隷属し、西与力は西奉行に隷属して居つたので之に各々同心が附いて居つたので、同心は確か百名か百二十名であつたやうに聞いて居ります。

それで大塩平八郎と云ふ先生は、東与力の人であつたのでございます。そこで此図を御覧になると、茲に井戸がございます。是が天満宮、是が天満橋で、此天満宮の裏門を出て、是が天満橋通り、是を突当つてこちらへ出ると、茲の所に、大道の真ん中に井戸が有る。

【図 略】

固より井戸の形だけが僅に残つて居るのでありますが、道中に井戸がございます。それでいつもお供をして通りながら、不審に思ひましたから、或時老人に尋ねて見た。「妙な所に井戸がございますがあれは一体どう云ふ訳で、あんな大道の真ン中に井戸が有るのでございますか」と言つてお尋ね申した所が、老人の言はるゝには、「イヤ是は元大塩さんの屋敷の台所であつたのが、彼の大塩焼でスツカリ焼払はれて、それから町の姿が変つたのだ」と云ふことで、段々詳しい事を聞いて見ると、大塩さんの屋敷は此真ン中であつて、東隣が瀬田済之助、西隣が小泉淵次郎の屋敷であつた。

それで大塩さんから道を隔てゝ向ひは、朝岡の屋敷で、其西隣が寺西と云ふ人の屋敷、東隣が丹羽と云ふ人の屋敷で、此三軒は、其時分に、まだ依然として残つて居つた。それで大塩先生の家は勿論のこと、両側の瀬田、小泉の両人は、何れも先生の門人で共に天保丁酉の挙兵に与した人であるから、無論一家断絶で、家は無くなつた。

こちらの三軒が無くなつたから、向側の寺西、朝岡、丹羽の三軒が、元はもつと北の方に寄つて居つたのだけれども、ズツト前へ推出して来て、それで大塩さんの台所であつた所が、道になつてしまつた。斯う云ふやうな次第である。

此老人は、若い時分に、大塩先生の所へは、始終往つた人であるので、其老人から、親しく聞いたのであります。

前にも申す通り、瀬田、小泉の両人は、大塩先生の門人でありまして、是は伝にも書いてございますが、天保丁酉二月十八日挙兵の前日、即ち十七日の晩には、東町奉行へ、両人が宿直に往つて居つた。所が平山助次郎と云ふ、是も一味の者であつたのだが、一且挙兵に与しながら、変心して自首したので、事露顕に及んだ。そこで奉行跡部山城守は、大に驚いて、早速捕縛しなければならぬと云ふので、宿直して居つた両人を御用が有ると言ふて、自分の居間へ召んで、俄に捕へやうとした。こちらは丸腰であつたからして、小泉の方は到頭殺されてしまつたが、瀬田済之助は、それを聞いて、奉行の塀を乗超えて逃げ出して、大塩さんの屋敷の方へ飛んて帰つて来た。それで挙兵の企が発覚して是々である、今に捕へに来るであらうと云ふことを、注進に及ぶと、「それならば直に用意をしろッ」と云ふので、急に兵を挙げることになつた。と云ふことは、是は伝にも出て居ります。

即ち此図で見ると此処が東町奉行所で、是から天満橋を渡つて、こちらの屋敷の方へ走つて来ると云ふ順序になつて居ります。そこで此大塩、瀬田、小泉の三軒の屋敷の後は、此図に在る通り丁度東照宮の境内になつて居ります。

東照宮には毎年四月十七日に御祭りがあつて、能楽の奉納でございまして、拝観を許されましたから、私も老人ののお供をして、能く見に往つたものでございますが、丁度大塩さんの屋敷の真後ろになつて居り、其時分にも、老人が能く話されましたが、大塩焼の時は、大塩さんは、まづ自分の家から焼き出して、第一番に真向の朝岡の屋敷へ向つて、鉄砲を打出した。

それから段々に焼け出した。其時に、奉行跡部山城守は、非常な狼狽で、第一に東照宮の御神体を持出さぬけれぱならぬ、それにはどうしたものであらう、若之をやり損なつたら、慕府から、非常な譴責を蒙る、殆ど切腹をしなければならぬと云ふ場合であつたさうであります。此事は能く老人から承つた事でございます。

老人は常に、大塩さんの事を非常に褒めて居られた。自分の家も大塩焼の時に焼けてしまつて、建直したと云ふことで、家を焼かれて居りながら、「大塩はえらい」と言つて大層に褒めて居られたのでございます。

それで私共子供心に、尋ねたことがございます。「一体大塩さんと云ふ人は、大阪市中を焼払ふなどと云ふ、随分乱暴な事をなされたものと、思ひますのに、えらいお方だと言はれるのは、どう云ふ訳でございますか、どう云ふ所がえらいのでございますか」と言つて尋ねました所が、老人は、「イヤ大塩さんと云ふ人は、一身を忘れて大阪の為に尽された、えらい人である」。と言うて、色々の事を話して聞かせられたのでございます。

或る時大塩さんは、顔に痾とか何とか云ふ腫物が出来たことがある。其時老人は外科医であるから、療治に往つて居つたが、或る日、朝出仕をしやうと云ふ前に、膏薬の張り換へか何かに往つた。さうすると、下女が弁当を持つて来て、「旦那さん、どうぞ錠前を………」と言ふ。さうすると、大塩さんは、紙入から鍵を出して、弁当箱に錠前を下ろして、「之を持たしてやれ」。斯う言はれる。「大層御注意深いことでございますが、どうした訳でございますか」。と言ふと、「イヤ人から色々言はれて居ることがあつて、少々用心しなければならぬ。」と言はれたと云ふことであります。

是は諸君も御存じでございませうが、大阪の天満与力と云ふものは、三十軒一つ所に塊まつて、屋敷町を為して居つたもので、そこから奉行所まで毎日弁当を運ぶのに、人足が一つの籠の中に、沢山の与力衆の弁当を入れて、担いで行く、空になれば又運び還すと云ふことであつたので、大塩さんの弁当も一緒に運ばせる。所が大塩さんは、当時方々の人から悪まれて、非常に敵を持つて居るから、いつ何時毒害されるかも知れぬ。と云ふことで、さう云ふ風に用心せられたのである。と云ふ話でございました。

一体大塩さんと云ふ人は、どう云ふ事を為された人でありますかどうしてそんなにえらいのでありますかと言つて、老人に聞くと、「大塩さんと云ふ人は、高井山城守と云ふ名奉行の時に抜擢されて、始めて吟味方に出られて、まづ手初に、多年縺れて居つた、角力の出入と云ふ、むづかしい事件を、手もなく捌かれた。それから漸々と大阪の弊政を改革された。誠にえらい人である。と言うて詳しく話されたのを、親しく聞いたのでありますが、御承知の通り、町奉行と云ふものは、今日で申しますれば、地方裁判所でやつて居るやうな訴訟の事は勿論、農商務省のやつて居るやうな事やら、それから東京府或は警視庁のやつて居るやうな事も、何もかも総て皆、町奉行と云ふ者がやつて居つたので両町奉行と云ふ者は、殆んど民政の全権を握つて居つたのでございます。

所が此奉行は毎年更るか、或は二年三年目に更るか、始終更迭して居つたのでありますが、与力は殆ど世襲でありますから、民政を掌る所の、実際の権力は、与力の手に在つたのであります。

而して与力の下には、同心と云ふ者があつて、是が直接に民政を掌る所から、与力同心と云ふ者は、非常な権力を持つて居りまして、或は堂島の米相場の上り下り、或は油取引の相場の上り下り、或は干鰯問屋の相場と云ふやうな事にまで干渉したものでございます。それに大阪と云ふ所は、昔から商業地で、士と云ふ者の余り無い土地でありまして、江戸は、百六十余大名、旗下八万騎、与力同心数知れずなどゝ云ふやうなことを申しますが、大阪の方は、蔵屋敷或は天満与力同心、或は城与力或は御鉄砲与力同心と云ふやうな者が、ほんの二十人か三十人づゝ、其他御城代御加番位のもので、士の少い町人ばかりの土地でございます。

それ故は二本指して居る者は、非常に威張つたもので、其上に与力同心と云ふ者は、右申す如く、民政を掌つて居つた所からして、えらい権力が有りまして、禄高は誠に僅なもので、与力が二百石と申しますが、其実は現米八十石しか貰へない身分である。所が其暮し方は、非常に奢つたものでございます。それから同心は十石三人扶持であつたさうです。それから又其同心の下に、四ケ所と云ふものがある。是は所謂岡引なるものでありまして、飛田、天王寺、千日、天満山の四ケ所に分かれて居つた所から、四ケ所と云ふものでありますが、是に又悪い奴がございました。

是等のもの共が、権威を振つて非常に悪い事を働いたと云ふことでございます。尤も此頃は、文化文政から天保の初め掛けて、所謂賄賂公行、腐敗堕落を極めた時代でございますが、其中でも、大阪は最も甚しかつたのであります。之を大塩先生が改革をし始めたので、其手初めは、どう云ふ事であつたかと云ふと、角力の出入の吟味、即ち今日の言葉で言へば、此訴訟の判決を大塩先生が下したのださうでございます。

それはどう云ふ事であつたかと云ふと、大阪には、角力の頭取と云ふ者が有つて、此頭取が、所謂勧進元と為つて、角力を興行する権力を持つて居る。例へば八陣であるとか或は小野川であるとか、若くは陣幕とか、竹縄とか云ふやうな頭取が有る、是は元、角力の三役が力士を廃めてから頭取になるので、譬へぱ今日、梅ケ谷が廃業すれば梅ケ谷と云ふ頭取の家が一つ出来る、常陸山が横綱を廃めれば、常陸山と云ふ頭取の家が一つ出来ると云ふやうな訳で、さうすると是が角力の勧進元に為れる、即ち角力の興行権を持つと云ふことであつたのでございます。

さう云ふことで、昔からやり来つて居つた所が、いつの頃からか、何でも文化文政の間でありましたらうが、頭取の世襲と云ふ弊害が生じた。私は小野川の家である、私は八陣の家である、と言つて、角力取でないものでも、頭取の子息とか、或は養子とか、若くは其株を譲り受けた者は、其名を名乗つて、角力の興行権を持つ。と云ふ弊害を生じて来たのです。茲に至つて頭取側と、大関を廃めて是から頭取に為らうと云ふ方の、古手力士の側との間に、喧嘩が始まつた。

と云ふものは、是まで三役として角力を取つて居つた者が、大関なり関脇なりを廃して、頭取になつて勧進元を勤めたいと思つても、頭が支へて居つて、頭取になることが出来ない。株を買ふかどうかしなければ、頭取にしてくれない。大関まで取つた者でも頭取に為れない。是では甚だ困る。と云ふことを言ひ出して来た。

さうすると一方の頭取の方では、「ナニ是は株だ、勧進元の株を持つて居るから角力は取らなくつても、興行して行くのだ」。と言つて、利害の衝突から、互に軋轢を生じて来た。是は今日から考へて見ると、どうも力士側の言ひ條の方が、道理が有りさうに思はれますが、因襲の久しき、頭取の門閥と云ふやうな風になつて、弊害を生じたるものと見えます。

そこで遂に、力士側から、奉行所へ願ひ出た。今日の言葉で申せば訴訟を起したので、私共力士を廃めても、頭が支へて居つて、頭取になれないと云ふことでは、どうも甚だ困るから、矢張り昔の如く、角力を取つた者でなければ、頭取になれない、と云ふことにして貰ひたい。斯う云ふ願が出た。さうすると、相手方の頭取の方では、それはいかない、自分は株を買つて居る、縦令角力は取らなくても、頭取の家を継いで居るのだからして、頭取になるのが当然である。斯う云ふ申条で、どうしても此出入の捌きが著かない。

と云ふのは、何とか言へば、賄賂の為であります。角力の興行権に関することであるから、余程利害の関係が有る。加之両方に各々贔負と云ふ者が附いて居る。大阪の豪商の中で、頭取贔負の者も有るし、又大関小結等の力士の方を贔負して居る者も有る。それが為に、吟味役の所ヘ、双方から賄賂を持つて来るし、色々な事を持込んで来るから、情実纏綿と云ふやうな有様で、どうしても捌きが著かない。そこで双方を召ひ出しては、百日の日延をやるから、熟談内済をするが宜しい。と云ふやうなことで、容易に片が著かない。

勿論其時分は、今日の裁判と違つて、なかなか判決と云ふものを下さない。成るべく熟談和解をさせると云ふことが、慣例になつて居る。其上に、前申す通り私が行はれるから、滅多に捌きが著かない。そこで内済にしろ、と云ふことで、日延になつて居る中に、掛りが更る、甲の人が罷められて、乙の人が吟味の掛になる、さうすると又乙の所ヘ、両方から賄賂を持つて行く。丁度芝居でする伴内のやうに、両方の袂へ入れられてどつちにしたら宣いか分らない。いつまでも捌きが出来ぬで、例の熟談内済で日延をして居る中に、復掛りが更る。幾度も掛りが更るが、誰にやらせても、一刀両断に之を判決してしまふと云ふことが出来ない。斯う云ふ風で、二年も三年も、五年も六年も、引き張つて居る。と云ふやうな始末でございました。

そこで是ではならぬと云ふので、高井山城守が、大塩平八郎を起して、吟味役に採用されたのであります。此吟味と云ふのは、今日の所謂民事でございます。刑事の方は、盗賊方と云つたのであります。此角力出入の捌きが、大塩さんが吟味役に著いて、功名を顕された初めであつたさうでございます。

そこで、大塩先生が吟味役になると、又両方から、色々な事を申込んで来る、或は菓子折やら何やら持つて来るけれども固よりさう云ふ物を取られるやうな人でないから、一切斥けて、受取らない。そこで大塩さんは、先第一に、今日の言葉で言へば、一件記録を調べたんでございませう。其上で奉行に向つて、「私に此出入の捌きを仰付けらるゝに就いては、提げ刀で吟味をすることを許して戴きたい」、と云ふことを、願つたさうです。さうすると奉行が「それはどう云ふ訳であるか」と云ふと、「イヤ彼等は、願人願はれ人共に角力である、事に依ると、彼等は白洲に於て、どう云ふ不法な事を申すかも知れませぬ、其場合には直に、打斬つてしまふ積りでござるから、どうぞ提げ刀をお許し相成りたい」、と申出たさうでございます。

昔の事で、武士に無礼をすれば、斬棄勝手と云ふ時代でもありますし、武士道に於ては、容易に刀を抜くべきものではございますまいが、其意味は提刀を許可すれぱ、自ら斬つても宜いと云ふことも、含まれて居るのださうです。 所が奉行に於ては、深く大塩先生を見抜かれたものと見えまして、之を許可せられた。さて大塩先生が、提げ刀の許可を得て、愈々吟味をすることになつて、双方の者を召び出す。

「願人誰某、町総代町役人附添、いつ幾日出て来い」と云ふお極り文句で、即ち今日の召喚状、其時分の御差紙と云ふ奴でございます。相手方の願はれ人の方も同様で、昔は出入沙汰が有ると、町役人或は町年寄附添出頭と云ふので、町内の者は、随分迷惑な事であつたのでございます。御承知でもございませうが、昔の白洲と申すと、今の訟廷とは余程趣を異にしまして、民事と雖も、調べを受ける者は、皆砂利の上ヘ蓆を敷いて坐らせられる。さうして吟味役の与力は継裃で椽側に坐つて、同心書き役(今日の書記)立合の上で、取調をしたもので、与力は肩衣で、脇差だけ差して居る。刀は持つて来ないのが普通である。

所が大塩さんは提げ刀でそれへ出て来た。召出しを受けて白洲へ参つて居つた、願人願はれ人一同附添の者までが、それ見ると先ビツクリしてしまつた。

兼て、大塩さんと云ふ方は、何を持つて行つてもお取りにならぬ、と言つで、双方とも懸念に思うて居つた所に、今日白洲へ出て来る所を見ると、提げ刀である。「大塩さん今日はどうしたんだか提げ刀だぞ」、第一番に皆の着が肝を奪はれて、ビツクリしてしまつた。そこで先、願人願意の趣を読聞かせると云ふことで、書き役が朗読した。

それはどう云ふことが書いてあつたかと云ふに、思ふに大方、「乍恐奉願候、私共賎敷者にて相撲家業罷在、以御恩家名相続罷在」、と云ふやうなことから、書き出してあつたでせう。そこで其の主意は私共角力を廃しても、頭取の方が株になつて居て、頭取に為ることが出来ない。従つて勧進元に為つて興行することが出来ない。斯う云ふ事では角力の事を知つて居つても何にもならぬで誠に難澁致す次第である。一向角力の事を知りもせぬ者が株を買つて頭取になつて居ると云ふやふな事では、角力道の発達も出来ない。と云ふやうな事が書いてあつた。

それかれから願はれ人の方では、是は株になつて居つて、私共頭取の家であるから、勧進元を勤めて角力の興行をすると云ふことは一向支へありませぬ。と云ふ答弁の主意であつたさうです。

そこで大塩さんは願人願の趣、及び願はれ人の答弁の趣を、一同に読聞かせて置いて、其場で直に判決を下した。

判決して言はるゝには、「全体角力には、故実と云ふものが有る。角力を取つたことのない者が、其故実も知らずして、頭取と云ふ名前を以て、勧進元になつて角力を興行すると云ふことは、間違つて居る。以来相成らぬ」。口頭で斯う言渡すと、それが直に判決で、「右之趣請書を出せ」と云ふことになつて、「畏まり奉る」。と云ふ請書を出すと、「双方立ちませい」。是でお仕舞である。グジグジ言へば打斬つてしまふぞと云ふ権幕で、「下れッ」と云ふことで、半時と立たぬ間に、此大事件を捌いてしまつたのでございます。

それからと云ふものは、「どうも大塩さんと云ふ人は、えらいお方だ。何年と云ふ永い間掛つた出入を、唯一日に捌いてしまはれた。どうもえらいものだ」。と言うて、非常な評判になつて、大塩平八郎と云へば、飛ぶ鳥も落ちる、と云ふやうな勢である。それで前にお話した、瀬田、小泉などゝ云ふ自分の門人を、引上げて使つて、正義の党を以て、大阪の民政を掌り、著々弊政を除いて、忽ちの間に、大改革を行はれた。

其一例として、矢張り老人から聞いた話を、序でに一つ申上げますが、其頃大阪の与力に、弓削新左衛門と云ふ悪い奴が居りまして、手下の同心、四ケ所などと、狎れ合つて、大阪市中の、相当な身分の有る息子を、「会所へ来い」と言ふて、引張り上げて来る。会所と云ふのは、今で言へば警察署で、そこへ引張つて来て、「貴様は博奕を打つたナ」とか何とか言つて、博奕を打ちもせぬものを、無暗に引張つて来て、強制的に科料を取立てる。大阪市中の良家の息子共が「今日も天満の旦那衆に引張られて、二貫文の科料を取られた」。「イヤおれも一貫五百文取られた」。と云ふやうな訳で、誠に迷惑したさうです。それて其科料即ち罰金はどうするかと云へば、別段奉行所へ納めるのでも何でもない。己れ等が酒食の資に供するのである。斯う云ふ弊害が有りました。そこで大塩さんが、此悪弊を除く為めに、同心などの悪い奴を悉く免職してしまつて、悪与力の新左衛門には、到頭割腹を申付けたさうでございます。

斯の如くして、大塩先生が、非常に大阪市中の民政を改革された。此事は多少伝にも出て居るやうでありますが、前申しました、角力の出入の事は、一向出て居りませぬ。大塩先生が、名声を揚げ、勢力を得られたのは、詰り此事件からであつて、先生の事蹟の中、最も大切な事の一つであるのに、一向世に知られて居らぬのは、遺憾な事であるから、どうか此事は、何かに載せたいと思うて居りました所に、丁度幸のお勧めでありますから、清聴を汚しましたやうな次第であります。

右の次第でございまして、大塩先生が多年の間紛糾して居つた難事件を、一席の裁判で難なく捌かれたのも、一朝にして市政の積弊を改革せられたのも、畢竟先生の心に、寸毫の私と云ふものが無く、全く私を去つて市政の公に尽されたからであつて、それと云ふも、其源を尋ぬれば、陽明学の力であらうと存じます。

尚此事から推して、今日現在の政治の有様などを考へて見ましても、中斎先生の如き人が、東京市に居つたならば、今日のやうな、市政の腐敗などゝ云ふ事は、決して無からうと思ふのであります。是はマア余計な附句でございますが、事実は右述べました通でございます。甚だ短話でございまして、格別の興味もございませぬが、私の老人より承つて居ります儘を御参考までに、諸君に申上げましたのでございます。


*1 陽明学会の東敬治主幹のこと。
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