Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.10.7修正
1999.7.31

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大塩の乱関係論文集目次


「大塩平八郎の乱」

三上 参次 (1865−1939)

『江戸時代史 下巻』 冨山房 1944 より転載


◇禁転載◇

第二節 大塩平八郎の乱

(一)当時の世情

 飢饉によりて諸所特に江戸市中にも暴動起りしが、かく凶歳年を重ぬる上に、江戸にては天保五年二月七日に大火ありて、文政十二年三月の大火にも劣らざる惨状を呈せり。それより引続き大風あり、火災頻々として起れり。右二月七日の大火は、文政十二年のと同じく神田佐久間町より出で、永代橋・霊厳島辺まで一円に焼払ひ、又三日程を経て十日に大名小路より火出で、銀座尾張町・木挽町辺にまで及び、諸大名の邸宅の災に罹れるもの多かりき。此の頃の武江年表の如き簡単なる年表を見れば、当時は火災と開帳との外記事なきが如し。殊に七年に至りては、前にも述べしが如く全国一般に霖雨にて、江戸も寂寞を極めたる上に、八朔の大風は非常なる惨害を被らしめき。

 世の中太平無事ならば地震火事等の天災もさ程目立たざれども、前述の如き有様となれば、社会の不幸の事のみ兎角人の耳目に触れ、隨つて人心を恐怖せしむるものなり。此の時に当り恰も大塩平八郎の乱ありて、太平久しくして大坂落城以来武器を見ざりし大坂は、不意に騒擾起りて大いに驚駭せり。

(二)大塩平八郎の乱の真相

 大塩の乱に就きては参考書甚だ多く、中にも塩賊騒乱記・塩賊大坂一件・塩逆述等は、当時の人々の聞書及び手簡等の根本史料を集めたる詳細にして完備せるものなり。この外時代尚ほ新しきを以て、当時の人々の見聞せる事を記せるもの多し。

 この大塩の乱は四つの観察点より観れば、その真相を知る事を得べし。  

 時勢は前述せるが如く世の中の人気極めて悪しくなりたる時にて、殊に中以下のものゝの中には、乱を好むといふ程には至らざるも、風吹きて悪気を払ふを望みしものもありしなるべく、加之人為の時勢即政治上の有様は、水野出羽守(天保五年卒)時代の弊習尚ほ盛んにして、賄賂公行の時なり。此の時水野越前守は老中たりしも、未だ改革を施さゞる前なりき。

 大塩(名は後素、字は子起、中斎と号す)の人物に就きては人々の説あれども、要するに豪邁不屈、生来自信強く厳酷に過ぎ、時としては執拗にして慓悍なる挙動をなすこともありといふに帰すべし。而して学者としては陽明学の大家なり。陽明学を修めたる人は、その学より来る一種の見解(知行合一)を有し、躬行実践を主義とするに至る。或はその説徳川幕府の制度と相容れざる所ありしか、大塩の其の終りを善くせざりしは、恰も熊沢蕃山等と類するところあり、而して此等らの人々は皆陽明学の大家なり。 大塩の人物学問はかくの如くなるに、其の境遇は一時は大いに其の手腕を振ふ事を得しも、祖先は今川の一族といふも元来与力の賤位置なり、故に当時の社会制度につき大いに不平にして、特に小吏に甘んずる能はず、居常鬱々たりしは免れざる所にして、而して飢饉は大塩をして過激なる挙動に至らしむる直接の原因となりしなり。大塩の登用せられしは大坂町奉行高井山城守実徳の時なり。高井は文政中に専ら大坂を治め、頗る眼識ありて、大塩の二十七歳の時これを登用せしが、大塩は才学共に優れ、吏務を執る事明敏なりき。前述せし京都・大坂地方にて豊田貢といふもの中堅となり、耶蘇教徒の蔓延せしを、大塩は命を受けて其の一団体を悉く処分し、当時の人々を感服せしめき。又其の頃同僚中に弓削新左衛門といふものあり、権勢家に出入し、相結託して賄賂を公収し、曲直所を換へ頗る執政をなせり。奉行これを知らざるにあらざれども、其の累の及ぶ所広きを恐れ、如何ともする事能わず。然るに大塩は命を受けて其の弊害を根底より覆し、終に弓削をして自殺せしめ、其の蔵せし所の金三千両を出して貧民を救助せり。又当時僧侶の品行極めて堕落して弊害多かりしかば、大塩は天保元年三月これをも厳重に処分せり。以上は其の著しき例なるが、大塩の名声は四方に轟き、殊に下に向かひては奉行同様の威光ありき(与力は今の警部の少しく上等の地位なり)。殊に貧民救助には早くより尽力せしを以て、此の社会の人望殊に大なりき。又公家衆の中にも評判よく、其の最期を聞きてこれを惜しみたる人もありしといふ。

 然るに高井山城守は天保元年に職を罷め、その後任に曾根日向守次孝・戸塚備前守忠栄・大久保讃岐守忠実等の人々二三年づゝ奉行たり、尋いで天保七年に跡部山城守良弼奉行となれり。大塩は高井山城守の退くと同時に与力を罷め、其の養子格之助に譲れり。大塩の辞職は、学識優れたるを以て、長く与力の賎職にあるを屑しとせざりしに因るものならんも、又一説に、大塩の或時駕籠に乗りしに、駕籠舁共大塩と知らずして、大塩さんもかゝる時に退いたがよからんと語り合ひしを聞き、職を退きしともいふ。町奉行は江戸にては南北にありしが、大坂にては東西にあり、大塩の属せしは西町奉行にして *1、その時東町奉行には矢部駿河守貞謙あり、天保の初め明奉行の名を得たりき。その後に堀伊賀守利堅奉行となれり。大塩の乱の時は、東には堀、西には跡部奉行たり、ことに堀は就職の初めなりしといふ。

 大塩は引退の間に政治の有様を見るに、水野出羽守一派の弊政上下に瀰漫し、大坂の一局部は己の在職中に清むる事を得しも、退職の後は不愉快なる事のみ多く、殊に近年の飢饉に際して救助普からず、啻に奉行の処置当を失へるのみならず、大坂の富人は無慈悲にして唯自己の栄華に耽り、貧民の窮状を顧みるものなく、天保七年に至りてはその惨状実に甚だしかりき。大塩これを坐視するに忍びず、養子をして跡部山城守に救助の事を説かしむる事再三に及ぶと雖も、跡部は亳もこれを聴かざりき。(此の時跡部の聴かざりしにも一理あり、幕府より江戸に廻米を命ぜしに因りてなりと。)大塩は跡部の聴かざるを以て、富家に謀りて救助せんとせしかば、跡部は大塩を嘲りて発狂者なりといへり。大塩これを聞き憤懣し、終に己の蔵書を売りて窮民一万人を救へり。養子格之助はこれが為に譴責せられき。    

(三)大塩ついに暴動を企つ

 是に於て大塩堪ふる能はず、終に暴動を企つるに至り、日を期して発せんとする時、同志の中平山助次郎といふ同心山城守に密告せり。時に天保八年二月十七日なり。因りて奉行所にては虚実を糺し手配をなせる内に、大塩は事の泄れたるを悟り、不意に十九日の巳の刻、己の居宅を中心として火を放ち暴動を起せり。その日は二十日終日焼け、一万八千余戸を烏有に帰し、大坂にては未曾有の大火なりき。大坂定番および大坂城代土井大炊頭利位は変を聞きて鎮撫の兵を出し、二十一日朝ニ至りて暴動平定せり。大塩は市中に隠れしが、三月二十七日捕吏の為に偵知せられ、将に捕えられんとせしかば、自ら火を放ちて焚死せり。余党亦前後に捕へられ、一件落着せり。大塩は時に年四十六なりき。

 大塩の乱をかの天保四年の播州の暴動に比するに、播州の暴動は貧民は万を以て数へらるゝ程多数なりしに、大塩の時は其の与党は与力・同心合せて数人にして、これに多少の農民の附和せしのみにて、前後捕斬せられしものも僅かに二十三人に過ぎず、播州加古川の暴動よりも小なりといふべく、又天保七年八月甲州郡内の暴動の時処刑せられしものは磔刑四人・死罪九人・遠流三十八人にして、此の外軽罪のもの猶ほ多かりき、故に事の分量よりすれば大塩の乱は大ならざれども、其の大坂なる枢要の地に起りしと、一万八千余の人家を焼きしと、主動者の人物の前述の如きとにより、天下の耳目を得せしめしなり。

徳川幕府は学問・兵法を教授するものは常に監視を怠らざりしが如く、かの由井正雪は大塩と一揆の事蹟を貽し、熊沢蕃山・山鹿素行亦皆幕府の嫌疑を受けしが、大塩に至りて遂に破裂するに至れり。  大塩の檄文は史籍集覧にも採録せらる。その挙兵の原因は略ぼその檄文中に尽されたるが如くにして、格別裏面の意味、即ち或は社会制度を大いに改革せんとするが如き、或は勤皇討幕の先駆たらんと考えしが如くには思はれず。されど元より社会制度に不満なりしを以て、平常の気質と学才とが、終に彼をしてこの挙に出でしめしなり。

大塩はかくの如くして事敗れ、その身は火中に自殺せし事は確実にして、これを実見せし人もなお現存せるありて、これを史談会にて演述したる事ありき。然るにかゝる事の例として、大塩は実際死せるにあらず、死せしは影武者なり、或は加賀に、或は奥州に逃れしとの風説あり、又騒乱の翌年即ち天保九年三月十日に於ける江戸西丸の焼失も、大塩の与党の仕業なりとの説起り、其の甚だしきに至りては、地学協会推誌に見えしやう思はるゝが、又大塩は海外に逃れしとの風評もありき。

 第三節 大塩乱後の情況

(一)大坂の情況

 大塩の乱後人心平穏ならず、殊に大坂にては人心の動揺尚ほ止まざりき。大坂人の記せし浮世の有様といふ書を見るに、天保九年春の有様を記して、

と。又

又市中物騒なる事を記して、

とあり。

 此の頃演劇の流行せし事は、此の時市川海老蔵といふ有名なる役者ありて、大塩の乱を芝居に仕組み、大湊汐満干と題して九州地方にて興行せしに非常の盛況なりしといふにても知らる。 又此の頃訛伝ありて、加賀の前田家の今にも叛せんとすといひ、或は芸州に一揆起りしとの風説ありて大坂の人騒ぎしが、何れも跡形もなき事なりき。加賀の叛乱の風説は、加賀候を毒殺せんと謀りしものありとの事に基けるものゝ如く、又此の時江戸に一種の流行歌あり、これも加賀叛乱の兆なりと称せられ、此の歌京坂地方にも流行したりしが、幕府はこれを禁止せり。又安芸に関する風説は、此の時広島の財政上の都合により銀札の通用を禁止せしかば、百姓の中これを不平に思い、少しく騒擾せるものありしが、大坂にてはこれを誤り伝へて、百姓蜂起して城に迫り石火矢にて打立てたりなど伝へしなり。


管理人註
*1 大塩は東に属し、矢部は西町奉行。乱の時は、東は跡部、西は堀(赴任直後)。「大坂町奉行一覧(大塩平八郎関係)

**『江戸時代史』は、講談社文庫として1992年に再刊されています。
檄文


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