Я[大塩の乱 資料館]Я
2012.4.8

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「大塩の乱関係論文集」目次


『郷土史の研究』(抄)

南河内郡東部教育会編・刊 1926

◇禁転載◇

一、 前編
 第十三節 警察
管理人註
   

 一、徳川時代  徳川時代に於ては、前章制度沿革取調によりて、各陣屋、藩庁に於け る警察事務の様子は略ぼ知ることを得れども、各村には捕方一名を置き、 之を番といふ。而して其の上には小頭ありて、数村に一名を置けり。当 地にては白木、東山、喜志、桜井等にありき。犯人逮捕は番の仕事にて、 軽罪は(野荒しの如し)大抵庄屋に於て取り調べ断罪せり。されば各村 に晒し場を設け、二日間、又は三日間、非人を晒し場の杭に縛し置きた るが如き、又は敲きに附したるが如きことあり。重罪に至りては、天領 にありては直接大阪奉行所に送り、藩領にありては陣屋又は藩庁に於て 取り調べ、断罪せり。  幕府領と藩領との関係は、藩領の庄屋は、幕府領の人民を自由に取調 ぶること能はず、先づ共の庄屋に交渉し、その承認を得て、初めて取り 調べに着手せり。之に反し幕府領の庄屋は、藩領の人民にても、自由に 取り調べ、所罰することを得しものなり。而して番には官選のものと民 選のものとあり。何れも一般人民よりは軽蔑の眼を以て見られしものな り。民選の番の今日迄其の形の残れるは、現在民選の野番、山番なり。  二、明治以後  各村にて明治三年迄は従前のまゝなりしが、明治三年、新に捕亡掛を 置かれ、同四年、之を廃し、伍長番卒を置き、五年、伍長、邏卒(番卒 を改称す)を置き、六年、小頭(伍長を改称す)を置き、邏卒を番人に 改め、七年、小頭、番人と改め、八年、小頭、番人を廃して邏卒と改称 し、更に八年三月の大政官達にて、巡査と称し、初めて警察出張所を置 かる。  河内にては枚方、古市、八尾の三ケ所にありき。出張所には邏卒二名、 附属の雇員三名を置く、邏卒は県庁より六十日交代にて派遣せられ、雇 員は地方のものにて詰め切りなり。その当時の警察事務は主して刑事警 察、諸興行の頼り締り等にして、行政警察事務を取り得る予裕あらざり き。而して警察出張所を古市に置かれしは、堺、大阪より大和地方に至 る交通の要衝に当りしを以てなり。其の後、大区に警察を置き、小区に 分署を置くの制を定められ、警部を以て署長となす、警部のなき所には 警部代理を以て之にあたつて、一二等巡査は監督となす。而して警部代 理以上は帯剣し、監督は一尺余りの棒を腰に下げ、、以下は警棒と称し て長さ三尺の丸き樫の棒を持つ。明治十五年、巡査の等級を廃し、警部 補を置く、又警部は一等より十等までの等級ありしが、之を廃し、警部 を署長とし、警部補を監督となし、分署長となす。明治十六年二月十日 より巡査一般に帯剣をなす。服装は明治十八年までは小倉服にて、それ より羅沙服となる。  明治八年、古市出張所設置後、三日市村上田に会所を置かる、明治十 六年二月、古市警察署を富田林村へ移す。而して明治二十三年、各村に 巡査駐在所設置せらるるまでは方面勤務とて、本署より巡回せしものな り。



適宜読点
を加えて
います。
   


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