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大塩平八郎が一代に洗心洞に蒐集したる和漢の典籍は無慮四万巻の多きに
達したが、非常に之を愛惜して、その人にあらざれば容易に見せなかつた、
へいしん
然るに天保丙申の飢饉に逢ふて細民の多くが路傍に餓死するにも拘らず、
幕吏は手を袖にして之が賑恤の法をも講じなかつたから、平八郎は之を見
か つい
るに見かねて、遂に金や米に易へて一日に細民に施して了つた、次で例の
へいてい
晴天霹靂の一揆となつて典籍の多くは丙丁童児の為めに奪ひ持ち去られて
はなは
世に存した物は太だ少ない。
へいせん
平八郎が兵燹の中に没してより茲七十年、段々その真意を知らるゝ事にな
つて、世人も漸く平八郎を憐み、その墨蹟を珍襲し、洗心洞の印章あるも
の、又平八郎が書入のある典籍は学者間に大切にせらるゝやうになつた。
見聞する所に依て洗心洞本の存在せる処一二を挙ると、易の大全は欄外に
細楷の書入があつて心血を注いだものであるが、之は谷鉄臣翁の書庫に帰
した、谷翁は之に依て大に発明したさうな、此の書は谷翁の養孫たる谷医
かいしゑん
学士が大切に保持して居らるゝ事と思ふ、芥子園画伝、これも平八郎の書
入あるもの、大阪の南宗画家森琴石の手に帰し、渡辺崋山翁遺愛たりし晩
笑堂画譜と共に愛玩して居る、又味経堂の近思録集解四巻は小津紡績の支
おほい
配人光吉氏が之を得て大に誇つて居るとの事である、
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丙丁童児
丙(ひのえ)火の兄
丁(ひのと)火の弟
細楷
小さい字の楷書
谷鉄臣
(1822〜1905)
彦根藩士、
医者・儒学者
芥子園画伝
中国・清代に刊
行された彩色版
画絵手本
晩笑堂画譜
上官周
(1665 - 1752)
清朝・中国の画家、
1743年に『晩笑堂
画伝』を刊行
小津紡績
西成郡歌島村
にあった
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