其後の修正議
これに刺戟せられて忠房は再び本問題を解決せんことを図り、聖謨の来訪を受けし後数日、評定所に登庁して再議を求めたり。遊芸園随筆。これ実に文政九年の事なりとす。御仕置例類集茶表紙後集一七に拠る、新張紙留意に収むる文政九年八月二十五日の相談書には、「去酉年中寄々御相談之上、当二月十二目御仕置御改革之儀申上侯」とあり。
是時評定所は、寛保三年江戸町奉行石河土佐守 政朝 より老中本多中務大輔 忠真 に達せる上申書に、死罪、遠島囚の子の処刑に就きては別に規定なきも、前々の例に准拠し来れる旨記されたるを見て、全く徳川氏以前の余風を踏襲せるものなることを知り、当時刑法の前には僧俗男女の別なきに、此縁坐法が女子、僧侶、及び他家の養子となれるものを問はざるが如きも、これが為めなるべく、頗る時宣に適せざるものなりとし、自後幕府に対する重大なる犯人と、主人若しくは親を殺せるものヽ子の為めにのみ此縁坐法を存し、死罪、遠島囚及び叛逆人の子と雖ども、父の後を継がず、他家に仕ふるものゝ如きは、亦罪を問はざることヽすべ
しと議決し、老中松平和泉守 乗寛 に具申したりしが、老中より逐つて命令する迄は、従来の通と心得べしと
の指令あり。其後四年を経て天保元年、評定所は又同事に就きて老中に上申し、脇坂中務大輔 安董 亦寺社奉
行として老中水野出羽守 忠成 に献議するところありしも、皆事重大なりとて敢て裁決を下さヾりしなり。御仕置例類集茶表紙後集一七、遊芸園随筆。
然るに江戸町奉行榊原主計頭 忠之 は、父の犯罪に就きて情を知らざる子を刑に処するは穏当にあらずとなし、老中に向つて意見書を呈せり。其要点は、子にして父の罪に坐すべくは、十五歳未満の時親類預けとするも、十六歳となるを待つて処刑せられざるべからざるに、出家を願ひ出づれば、これを許して其罪を問はざるは、全く幼と老とを罪せざるの意に出づベし。果して然らんには、父子の間と雖ども、情を知らざるものは幼年者と撰ぶところなからん。これ恐らく戦国時代の前例なるべく、支那に於てもこれなき如くなれば、死罪囚の子は遠島より一等を減じて改易となし、軽重追放に処すれぽ、永く仁恵に浴せんといふにあり。依つて天保十三年四月、老中水野越前守 忠邦 は評定所に下して審議せしめ、七月評定所は大略次の如く答申せり。
幕府の法は如何に幼年者たりとも、父の罪状如何に依りては、老幼の別なく同罪に処せんとするにあり唯幼年者たるが故に、十五歳に達する迄親類に預け置き、其内出家を願ひ出づるものは、処刑を免じて出家を命ずるも、之を以て一般に幼年者なるが故に処刑を免ずるの意と解するは誤れり。然れども父の罪に坐するものに向つて、父の刑より一等を減ぜんとするは可なり。寛政元年松平越中守以来、数次これが修正を企てられしも、未だ決定を見ざるは、多年の慣例の一朝に改革し難きにも依るべしとはいへ、此法は決して時宜に適せりと謂ふを得ず。天保九年大塩平八郎の次男弓大郎に対して、評定所は彼れが幼稚なるも、巨魁 主謀 の血統を承くるものなれば死刑に処すべしと上申せるに、老中は弓大郎が幼年者なるが故に寛典に処すべきにあらずやとて、此くの如き幼年者を死刑に処せし先例の有無を諮詢せられ、これに対して評定所は、由井正雪を始め、其党与の子の磔若しくは死罪に処せられしものヽ中には、七歳未満のものありと伝ふるも、これに関して記録の存するものなく、只平八郎は叛賊の主謀なるを以て、其子は死罪に、他の与党の子は遠島に処せば、寛猛宜しきを得べしとて前議を繰返し、尋で老中は更に林大学頭の意見書を添へて再議に附せられたり。大学頭の意見は、和漢の荊法を参酌して、一般死刑囚の子と同じく、遠島に処するを適当となすといふにありしも、評定所はこれを不可とし、只遠島刑に処すべきものヽ放置し難き故を以て、入牢せしめし先例に照らして、弓太郎は死刑に処すべきも、幼稚なるが故に永牢 一生入牢せしむるもの に処するを至当とすと答申し、これが裁可を得しことあり。斯く最も重大なる犯人の子なるに拘らず、幼年にして人事を弁へざる為めに此恩典に浴するを見るも、普通の犯罪にして磔若しくは死刑に処せられしものヽ子の情を知らず、又人事をも弁へざるものを、一般に遠島、追放等に処せらるゝは穏当と請ふを得ず。故に叛逆徒党の主として幕府に対する罪を犯せるもの、若しくは主人又は親を殺せるものゝ子の外は、親の罪に坐せざることヽせらるヽは、多大の仁恵なると共に、又最も時宜に適せるものなれば、これに向つて決定的指令を下されんことを望む。
而かも此町奉行及び評定所の熱心なる修正意見も、老中の決裁を得ること能はざりしと見え、天保十五年以来、遠島刑囚の子にして父の罪に坐して中追放を申渡し、十五歳迄親類に預け置くべしとの判決をしたされしもの多し。御仕置例類集茶表紙後集一七
三 概括的批判
縁坐法維持の理由
此くの如く父子縁坐法の戦国乱世の余風にして、時宜に適せざる不條埋の法たると認めながら、幾度か審議を重ねて尚ほ改廃の明断に出でざりしは、(第一)幕府の当局者が一般に御定書を玉科玉條として、これを改むるを余りに重大視したるに依るべしとはいへ、此法の保存すべき理由をも認めたりしなり。即ち(第二)世は静平に帰すと雖ども、武家の特色たる武断的制裁はもとよりこれを捨つべくもあらず。されば此法の如きも、重罪犯人が一身の極刑に処せらるゝ外、其子も亦これに坐して厳刑に処せらるヽを示して、世の犯罪を防止せんとせる脅嚇主義に基くこと、前に説けるが如くなるのみならず、(第三)武士は社会の儀表たるべきものなるを以て、同一の犯罪に対しても、荊罰は町人百姓のそれよりも重くするを原則としたれぽ、此法の如き町人百姓に適用せざるものも、武士には尚ほこれを適用せり。これ一は(第四)重罪犯人の子が将来成長後恐るべきものあるを思ひ、予め其余撃と絶ち、犯罪を防遏するの用意にも出でしなり。天保九年八月、大塩平八郎の子弓太郎に対する荊の適用に関し、評定所の議決 評議 に於て、
殊弓太郎儀、死を被宥候上者、成長後、何様之異変有之間敷与も難申哉、右者見越之儀に者御座候得共、いづれも逆徒之血統ニ候上者、死刑ニ被処、長く其被絶候儀、専要之御所置歟与奉存候、
といへるは正しく此思想を表示せるもの、彼頼朝が義経の妾静の生める子の男子なりし場合には、これを殺すべき理由として、「於為男子、今雖在繦褓内、争不怖畏将来哉、未熱時断命條可宜」といへると同意に出づ。(第五)此縁坐法の適用を以て人才登庸の途を開く手段と看倣すものあり。前記遊芸園随筆に、川路聖謨が寛政天保の頃寺社奉行吟味物調役として刑法に通暁せる久須美六郎左衛門と、父子縁坐法の当否
を討論せしことを叙したる後、同人 ○久須美 の説は、父の科に依りて御旗本の家も潰れ、又一方には御取立者の御加増を賜ふ事あり、夫にて丁度経済の平均に至るものと云べし、あまり有がたき世禄の御代なれば、斯る増減なくては人材を登
用するの途なしと云り、是又一論なれば記しぬ、
といへり。こは余りに矯激の言にして、もとより通論にあらず。