Я[大塩の乱 資料館]Я
2000.3.7

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大塩の乱関係論文集目次


「浪 華 御 役 録」

中川烏江

『難波津 第17号』1925より


◇禁転載◇

 『浪華御役録』は維新前の大坂の職員録で、かの『大坂武鑑』や『大坂袖鑑』に比べて、頗る平民的に簡明に出来てゐます。巾は曲尺の二尺、天地同じく一尺の西内紙(ニシノウチ)(仙花の一種)一枚摺にし、それを巾を八つ折、天地を二つ折とし、これに包紙がついて、包紙の表面上部に『浪華』の二字が隷書で左右に割書にし、その下に『御役録 全』と大きく書き、左方の上部に開板の年代、その下に二羽の鶴、右方には松竹梅の絵があり、その絵はいづれも墨絵であります。

 この『御役録』は、いつ始まつて、いつ終つたか、それに公布式のものの代用として書林が印行したものか、書林が私に編纂発行したものか、それとも其筋の指導認許を経て発行したものか、自分は知りません。

 現在自分の手元にある『御役録』は七十有余(無論重複もありますが)で、古いのは明和八年、新らしいのは慶応元年八朔改で、その最初の発行は、いつと断言出来ませんが、少くも壱百年間は継続発行されたもので、明治維新と同時に絶えたものでせう。現代の若い人たちの中には、此の『御役録』を未だご覧にならぬ方もありませうから、茲に其の一枚摺の内容概略を申しませう。

此の『御役録』の表面は六段から出来てゐます。その第一段には

さて第二段には 第三、第四の両段には『両御組与力御役附』として、 また第五、第六の両段には、『両御組同心御役附』として、 以上の役名の下に一一役人の姓名が書かれてゐます。これで一枚摺の表面の部は終つて、さて裏を返して見ると、これは一種の地図に似たもので、

 以上は安政六未八朔改、書林天満鳴尾町神崎屋金四郎発行のものに依つて記しました。尤も年代によりて聊かの相違はありますが、大体前記同様と見て差支はありません。

 元来『御役録』は年頭と八朔とに改板されたもので、その包紙の表面には『亥年頭改』、『子八朔改』などと書いてあり、また包紙の裏面には、長方形の輪郭内に『西御役所附下宿、大和屋庄兵衛』とか『東御役所附下宿 糀屋久右衛門』とか、『豊島屋門蔵』とか、『東下宿 豊島屋門蔵』とか、また円形の輪郭内に縦に『大庄』、その左右に『下』『宿』と割書した(これは大和屋庄兵衛の畧か)、いづれも黒肉の捺印あるを能く見受けますし、時には包紙の表面にも朱肉の熨斗印が捺されてゐるのを見ます。前記の『大和屋』や、『糀屋』や、『豊島屋』などは公事宿ですから、多分、年頭や八朔に得意先への配り物にしたものであらうと推測されます。

 それから此の『御役録』の出板元ですが、明和八年のには天満橋九丁目神崎屋清兵衛とあり、文政四巳の年頭のには大坂天満鳴尾町堀川御堂東へ入神崎屋金四郎とあり、その他、天満天神裏門筋西砂原屋敷神崎屋清兵衛とあり、天満天神裏筋西砂原屋敷神崎屋五四郎とあり、大坂天満十丁目かうもんすじ西入鳴尾町神崎屋利右衛門とあり、大坂博労町丼池筋少し東神崎屋清三郎とあり、大阪南久太郎町四丁目中橋筋西へ入神崎屋清二郎ともありますが、最も多いのは天満鳴尾町神崎屋金四郎の開板であります。金四郎といひ、清兵衛といひ、五四郎といひ、利右衛門といひ、清三郎といひ、清二郎といひ、その名は変つてゐても、皆同一の神崎屋で、その住所や発行人の名に変動のあるのは、何か意味を有することではないでせうかとも思はれます。

 この『御役録』を、年代を追ふて比べ見ると、面白い生きた事実が眼前に展開されます。例せば、文政年間の西口四軒屋敷の一角に『大塩平八郎』とあつて揚羽の蝶の定紋が書いてあり、その西隣は同じ東組与力『西田青太夫』の家で、この青太夫の実弟格之助が即ち大塩家の養子となつてゐるに就ては、隣家同士のの殊に懇意の中で、養子にあげませう、貰ひませうと、話が容易に纏つたものとも想像されます。また格之助が大塩家を相続したは天保元年の秋ですから、天保二年春の『御役録』には同じ大塩の屋敷も戸主が変つて、平八郎の名は無くなり、天保八年八朔改のには、その西口四軒屋敷の一角に『元大塩格之助屋敷跡』と書かれてゐますのは、その年二月に、かの『大塩暴動』のあつたことを語つてゐる上に、『城代』の欄が空白で欠員であることを示し、東町奉行の跡部、西町奉行の堀が、この暴動の勃発に際し、いかに狼狽したかを推察することが出来ます。


管理人註

『大阪市史 第2巻』では、大坂城代は次のようになっています。

また、『大阪市史 第4巻下』では、次の日付の町触があります。


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