Я[大塩の乱 資料館]Я
2002.3.7修正
1999.12.10

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大塩の乱関係論文集目次


大阪における〃弁護士民権〃の先駆
島 本 仲 道

 ――大塩の伝統を継承発展させた民権家たち――

中瀬 寿一

『大阪春秋 第33号』1982.8より転載

◇禁転載◇




一、はじめに ―自由民権と大塩事件―

 ことしは大阪で自由民権運動が最も高揚して満百年、大塩事件勃発より百四十五年にあたっている。だが、このニつの民衆運動の間には何らの伝統的・思想的つながりもなかったのであろうか。従来は少くともそうみられてきた。

 ところが、ここに縦一メートルあまり(横三五・五センチ)におよぶ一幅の珍重な絵が発見された。大坂の画家・薮長水(文化一一〜慶応=一八一四〜六七年)が大塩事件(天保八=一八三七年)直後の秋にえがいた大塩平八郎の梟首(デス・マスク)で、頼三樹三郎が追讃をしるしている。昨秋、酒田の本間家を調査したおり、すぐれた郷土史家の佐藤三郎氏(『酒田の本間家』その他の著者)の厚意で私はその複写を入手することができた(酒田市立光丘図書館蔵。おそらくこれは、若いとき大坂に遊学し、頼三樹三郎を訪れ、のち佐久間象山にも学んだ、のちの民権家・松本清治がひそかに酒田に持ら帰ったのではないがといわれている)。

 おもえば明治七(一八七四)年九月、のちに〃酒田の佐倉宗五郎〃とよぱれた森藤右衛門が「ワッパ騒動」(大蔵省に不正報告した県の旧権力温存派に対して、〃税金を返せ、献金を返せ〃のスローガンで立上った地租払戻し要求の民衆闘争)で上京建白するさい、この血の色もなまなましい、凄惨そのものの、鬼気せまる軸を床の間にかけ、松本清冶らと水盃をかわし、「高歌長吟天ヲ仰ヒテ死生国家ノ為ニ犠牲ニ供センコトヲ誓」った(『酒田市史−史料篇八』二八頁および八八四頁)といわれ、大塩の伝続がはるが東北でも生きつづけ三十余年をへて、自由民権運動の〃起爆剤〃のひとつになっていることが明らかとなった。

 また民間憲法草案として注目される「五日市憲法草案」(明治十四年、千葉卓三郎起草。詳細は色川大吉編『三多摩自由民権史料集』参照)といっしょに発掘された深沢権八の『不動山人手録』の冒頭にも大塩の漢詩「潮上煙波帰未帰……」がメモされ、当時の英・仏・独法律学者名((英 鳩山和夫、仏 井上正一、富井政章、熊野敏三、独 山協玄」)や加波山事件宣告(明治十九年七月三日)、さらに「星亨著『各国国会要覧』」などがしるされているのを、町田市史編纂室の自由民権史家新井勝紘氏の援助で発見できた。一方、五月に訪れた徳島県脇町(最近、大塩生誕地説がクローズアップされている)では、野心作『天保の青雲−阿波人大塩平八郎』の著者・岩佐冨勝氏から、明治五(一八七二)年、蜂須賀茂詔(もちあき)(旧徳島藩主)の随員として小室信夫・古沢滋らとともにヨーロッパに留学(五年以上)し、のち〃阿波の民権家〃として活躍した前田兵治が「自分の村で大塩中斎の生れたことを信じ」「演説の素材によく使ったという」(佃実夫『阿波自由党始末記』(一七〜八頁)話を示唆された。

 こうして大塩平八郎らが、九州の島原の乱や関東で活躍した義民・佐倉宗五郎らとともに激しい弾圧のもと各地で脈々と生きつづけ、民衆の中に抵抗の種をまき、民権運動の〃起爆剤〃とさえなったこと、いいかえると、日本の民衆は世界史的にみても、これらの誇るべき豊かな抵抗の遺産と底深い伝統をもっており、ブルジョア民主主義革命闘争としての自由民権運動はまさにその継承発展としての、ひとつの輝やかしい金字塔をなすものであったこと――などが、いまや全国的に明らかになりつつある。しかも、こうした貴重な史料はまだ全国に埋もれており、まだまだ出てくる、といっても過言ではない。

二、島本仲道、船場に北洲杜設立 ―全国的に最もはやい民権結社―

 地元大阪でも、大塩事件を克明に記録した労作として定評のある『青天霹靂史』(明治二十年刊)を著わした島本仲道(北洲)が明治七(一八七四)年六月に大阪船場で全国的に最もはやい民権派代言人結社=北洲社を設立、数多くのすぐれた弁護士の育成をはかり、先駆的な〃弁護士民権〃ないし〃都市民権派〃 (江村栄一「自由民権運動とその思想」『<岩波>日本歴史講座第十五巻近代二』一九〜二一頁)として活躍していることも明確化した。

 島本仲道は、天保四(一八三三)年生れの土佐藩士(伸次郎、あるいは審次郎、父は嘉六)で、若くして陽明学に傾注し、江戸に出て安井息軒に学ぴ、久坂玄瑞らの尊攘運動に参加、藩内では古沢滋・河野敏鎌らと武市瑞山の土佐勤王党に血盟した。このため文久三(一八六三)年武市瑞山とともに投獄され、獄窓に月を眺めては次の歌をよんだ――。  

これにこたえて瑞山も、

と詠じたという。

 維新になってゆるされ、十津川騒動の鎮撫に加わり、明治三(一八七○)年には大和五条県の大参事となり、東京府権少参事(同四年)、司法大丞兼司法大検事・警保頭(同五年)などを歴任、江藤新平の司法制度改革に協力した(『大日本人名辞書』第二巻、奈良本辰也監修『幕未維新人名事典』三二四ページ参照)。

 なお「明治五〜六年の頃、海軍省所属の運送船大阪丸と、三菱会社の汽船山城丸と、瀬戸内海にて衝突した」事件がおこり、大阪丸沈没、多くの死傷者を出したが、「江藤司法卿、時の大阪裁判所長児島惟謙をして之を審按」させた。このため児島は、岩崎弥太郎を召喚したが、岩崎は「病に託して応ぜず。実は花街に遊蕩」していた。そこで岩崎を拘引するため、江藤に電報で指令を仰いだが、江藤はそれを警保頭だった島本にしめして、「岩崎は土佐の人材たるに、之を拘引せしむること情に於て忍ぴざる所なり」と告げた。しかし、島本は正義の立場から「召喚に応ぜずんぱ之を拘引するに於て何かあらむ、と直に拘引許可の指令」を発し、岩埼は「遂に南地九郎右衛門町の市楼より拘引」され、「終身の恥を為す」にいたったというエピソードが残っている(松村巌「島本北洲」『土佐史談』四九号)。ここにはかっての大塩をほうふつとさせるところがある。

 このあと明冶六(一八七三)年十一月、島本は司法三等出仕・大検事・警保頭を辞任し、翌七年四月、土佐の立志社設立に参加し、その法律研究所長となったのであった(ただし、この設立年月にかんし、外崎光広氏の「立志社法律研究所の始期と終期」『土佐史談』第五九号や「立志社法律研究所について、『四弁連会誌』の批判に答える」『<高知短大>社会科学編集』第三三号などにおいて、従来の通説への批判が提起されている)。  おそらくこの頃、高知の帯屋町の営所跡で板垣退助らによって討論会がおこなわれ、島本が「新律綱領」を講じたところ、大石勝彦が門人をひきい、長剣をおぴて傍聴し、「本邦固有の法律に令義解あり。之を舎て夷狄の学を講じ、内を卑めて外を尊ぷは何ぞや」と、大声で叫び、板垣がこれをなだめた、という話がある(前掲松村論文)。

 島本は同年六月、いちはやく大阪の北浜二丁目(本多卯兵衛所有の借家、月十円)に北洲社を設立したが、これには寺村富栄(奈良県を辞任して参加、のち大阪組合代言人会初代会長、府会議員となる)、岩神昂(古沢滋の兄で、大阪鎮台・京都裁判所をやめて参加、西南戦争時には、林有造・大江卓・陵奥宗光らと峰起を計画したといわれる)、都志春暉(大阪裁判所を辞任し参加)、岩成濤雄(奉頂宮勘定方をやめて参加)、菊池侃二(のち府会議員、国会議員をへて大阪府知事となる)らも参加した。ついで七月に資金を島田組(高麗橋一丁目)の番頭・田部密から借入れ(二千円)、今橋一丁目五番地の平野屋(高木五兵衛)の家屋を借りうけ(月二五円)、北洲社をここへ移したが、九月には小島忠里(十八才)らがはやくも入舎し、明治十三(一八八○)年五月解散まで民権派代言人の積極的な育成と民衆の権利擁護のたたかいがつづけられていった。

 島本は翌八年にかけ、東京(日本橋北鞘町五番地)や広島、堺(車之町、寺島槙蔵方)、博多(土屋町)などにも北洲舎を設立して活躍し、(その後、新潟、名古屋、大津にも支舎設立)「明治八、九年の頃最も好況を呈した」が(『太阪弁護士史稿上』六二三頁)、西洋料理の夕食会をおこない(同八年五月)、貸出図書としては『仏国憲法』『仏国政典』『仏国商法』『仏国訴訟法』『仏国民法契約法講義』『仏国証拠法』『仏国商業会社法』『淪氏英法小言』『憲法類編』『新律綱領』『地租改正条例規則』『内国船難破云々規則』『貸借必携』『訴答必携』『民法仮法則』『米規則』『郵便規則』『度量衡取締条例』『改正新旧公債証書条例』その他、西欧の近代的な政治法律文献から実務的な訴訟ガィドなどをひろく網羅した(同九年八月)。そして翌十年二月からフランス法(民法・刑法)の輪読会を週二回(月曜・木曜日の夜)おこなうという力のいれようであった。

 門下で、明治九年末はやくも代言人検査にパスした小島忠里などは、同十年一月に西区土佐堀裏町に石黒潤一郎・三宅徳馨らと賛成社を設立し、民衆憲法草案の起草と地方自由党の設立を基礎に全国的一大政党結成をきめた国会期成同盟の第二回大会(同十三年十一月)に参加するなど、自由民権運動にその情熱をもやして活動している(詳しくは日本機関紙協会の『宣伝研究』八一年十二月号より十回連載の拙稿参照のこと)。そうしたなかで、同十四(一八八一)年三月に、小島は第三代大阪組合代言人会会長に選出されている。

 その詳細な記録は、大阪弁護士会館に保存されているが、現在もなお弁護士として元気に活躍されている日野国雄氏(明治三十年生れ、八四才)におあいすると、自由民権期から大正デモクラシー期に弁護士として政治家として大いに活躍された尊父の日野国昭(慶応元年生れ、戦後死亡)と小島忠里について、その想い出を静かに次のように語られた――。

 「父の話によれぱ、父は明治十六−七年に代用教員にされるのがいやで、松山中学四年のとき大阪に来て、郷里の大先輩小島忠里先生のところへ入ったが、書生十数人をかかえて非常な勉強家で、偉い先生だった。なにしろ酒は呑まんし、遊ぴもしない、いろんな意味で先端をいっていた。所蔵図書も多く、書生に自由に読ませた。そのおかげで明治十八年に父は代言人試験にパスしたが、満二十才以下は駄目で、翌年にはやくも代言人資格をもらった。昔は梅田駅の南に乗馬クラブがあり、父はよく馬にのって活躍したが、日露戦争のころ大阪市会議長をやり、大正期には代議士として犬養毅らとともに普選運動の先頭に立ち、中之島公会堂など聴衆で埋まった が、終始軍人ぎらいで通した。私も三高・京大を出て、大正十年弁護士となったが、父のように政治家になりたいとは思わなかった。しかし、いまも父を尊敬している」と。(なお日野国昭については、別の機会に詳述したい)。

 このほか山下重威(のち第二代目大阪組合代言人会会長)らにより代言人組織・便宜商社(明治七年、北浜二丁目)、寺村富栄らにより商声館(同十三年、北洲舎解散後、同所)、リップマン、ベイネーらの司法省お雇いフランス人法律家とともに北洲舎で法律を講義した渋川忠二郎や河津祐之・小村寿太郎らによって大阪法学舎(同十四年、平野町二丁目。その後、江戸堀上通一丁目に移り、同十六年明法館となる)、善積順蔵らにより誘信館(土佐堀裏町、同十六年)、内村義城らにより弘通館(今橋三丁目、以下同年)、本荘一行らにより訴訟鑑定所(今橋二丁目)、井上忠則らにより正理館(土佐堀三丁目)、江木信らにより江陽社(江戸堀北通三丁目)、さらに東京に河野敏鎌・中野武営らにより設立(同十五年)された修進社の大阪分社(同十七年、今橋二丁目)などがぞくぞく設立され(『大阪弁護士史稿(上)』五六七〜六六二頁)、官憲派の弁護士が大阪にはほとんどいないという状況がつくられていった(官武外骨『明治密偵史』一五六頁)。

 だからこそ、旧大阪弁護士会館講堂の歴代会長像の筆頭に島本の写真ががかげられ、「我邦代言代書業務の開祖」(『大阪弁護士史稿−続、戦中編』一五七頁)として伝えられてきたのであった。だが、「民権百年」まで、すっかり忘れ去られてきたのはまことに残念である。

三、大塩の伝続をひきつぐ民権家たち ―中斎と民権をつなぐもの―

 ところで、島本仲道はこれよりさき明治九(一八七六)年二月に一般の貧困な庶民の上告のために、自由民権の立場から、次のような画期的協定を東京北洲社と結んでいるのも忘れることができないであろう――。

 だが、島本のこうした献身的な民権的弁護・政治・学習活動が明治瀋閥政権のにらむところとなり、西南戦争勃発直後の同十(一八七七)年三月には、官憲の弾圧で、「警視庁の檻倉に拘留せられ、何等の取調をも受くること無く、空しく二百余日を経た」のち、十月に無罪で放免されるにいたっている。その言渡書は次のとおりであった――」。

 なお、西郷らの西南戦争につづく竹橋事件(民権派軍人兵士らによろ天皇直訴事件として最近研究が進展中)の前夜に、はやくも大阪市西区西長堀の材木豪商・門田三郎兵衛らの出資およぴ印刷で、自由民権雑誌が発刊されるにいたっている。その最初の『攪眠新誌(こうみんしんし)』(明治十年二月二十一日創刊)が弾圧されたあと、ひきつづき刊行された同じく週刊の『興民新誌』明治十年九月五日号(東京大学明治新聞雑誌文庫蔵)誌上で、いちはやく「故大塩平八郎ヲ追慕スル文」がかかげられ、「若シ大塩子ヲシテ今世ニ存生アラシメバ、必ズ国家柱石ノー英雄ニシテ民権ヲ主唱スル一…ナラン、鳴呼惜哉」と、その低抗の遺産を正しく継承しようとしているのも大いに注目される。

 門田三郎兵衛は「大阪町人で洋服をつけた最初の人」といわれ、明治十四年・十五年・十七年と、民権派からひきつづき、大阪府会議員に当選しているが、大阪鉄工所(日立造船)のE・H・ハンターとも親交があり、天皇を批判した弟平三の言動(明治十四年十二月二十四日の忘年会席上)が翌年不敬事件として弾圧され、その後、平三がカナダのパンクーバーに〃亡命〃するなど、民権家として数奇の生涯をたどったことが、伊勢戸佐一郎氏の興味深い調査で最近明らかになりつつある(「長堀浜日記(二)」『大阪春秋』第二五号、八○年九月刊はじめ、最新の研究参照)。  ついで明治十二(一八七九)年には、井上仙次郎(大阪市東区北渡辺町寄留)の『今古民権開宗・大塩平八郎言行録』が出版されたが(植木枝盛の『民権自由論』と同じ山口恒七の刊行)、関西での民権の急先鋒『大坂日報』(同三月四日)紙上に広告されて、「漫録」では「商法モ民権、百姓モ民権、大酒モ民権、大食モ民権、女郎買モ民権…」などと諷刺されるほど、〃民権ブーム〃がすでにもりあがっていた。また同紙は八月二十三日号で「府民ノ暴徒大塩ヲ追慕スル」のは、「貧富平均主義」に似ており、「無産ノ徒ガ民権開宗ナドトシ、社会党論ヲ輸入」するものだと、〃上流民権〃的立場から批判しているのも輿味深く、大塩の伝統を継承・発展させようとしたのが、むしろ下層の〃平民民権〃の運動であったことを端的にしめしている。

 また同年土佐の中尾捨吉も、大阪土佐堀に民権結社・民政社を設立し、その直後『洗心洞詩文』を刊行しているが、その「論伝」には、「水哉いわく」として、上阪後ただちに大塩の門下生や遺書、事件目撃者をさがしだし、大阪の本浦茂兵衛(七一才)に事件当時の状況をきき、?伊丹の稲川氏(五七才、事件当時一五才で、弟子)から家蔵の洗心洞遺稿数篇を借覧のうえ、この書を刊行したことをなまなましく語っている。

 中尾や中江篤介(兆民)・土居通予らの恩師の奥宮正由(慥斎)は、天保六(一八三五)年頃、大塩と交友があり、中斎を深く尊敬した陽明学者で(石崎東国『中斎先生年譜』(二一四〜六頁)、民撰議院設立建白の「文章の修正潤色」者(糸原寿雄『自由民権の先駆者』一八頁)、であり、〃自由民権の先駆者〃で〃大逆事件犠牲者〃の奥宮健之の父でもあった。したがって、土佐ではこうして奥宮らによって大塩の思想がひそかに語りつがれていったにちがいない。ここに日本の民権の伝統の豊かさ、底流の多様さと根の深さの一端をかえってまざまざとみることができるし、大塩平八郎らの伝続を継承・発展させた民権家たちの、全国各地、とくに大阪での活躍をみることができるのである(なお、これよりさき明治六年〔=酉年〕九月に大阪道頓堀角の芝居において『大塩噂聞書』が上演され、その台本・配役その他貴重な大塩関係史料が、最近田結荘干里の孫の田結荘金治氏によって、「玄武洞文庫」として大阪府立中之島図書館に寄贈されたことを記しておきたい)。

 また宮津や徳島の民権運動とも関係の深い小室信夫の養子・信介が『東洋民権百家伝』(明治一六−七年刊)に政治小説『自由艶舌女文章』(『自由燈』)を書き、その「一主人公お信が大塩の残党の娘とされ、大塩が民権運動の伝統の中に加えられて来ている」(岩波文庫版『東洋民権百家伝』ヘの林基氏による解説、三八六頁)ことも指摘しておこう。

四、島本の『青天霹靂史』にえがかれた大塩事件像

 こうして島本仲道(北洲)らは藩閥専制政府に抗してあくまでたたかった。だからこそ、明治二十(一八八七)年十二月末、島本は、中島信行・片岡健吉・尾崎行雄らとともに保安条例により東京から追放されざるをえなかったのである。

 なお、これよりさき同年八月、〃大塩事件満五十年〃によせて、名著『青天震露史』を東京で発刊しているのをみても、その大塩事件と民権運動によせる情熱がなみなみのものでなかったことが推察される(当特、神田区中猿楽町十七番地寄留し、発売元は博聞社)。

 これには「丁亥(注、同年)晩春」としてすでに婦人民権家として令名のある中島湘煙の序文が巻頭をかざっている。

――これは、同書の最初の名句で、この書物には大塩の抱懐した王政復古思想(六頁)や「窮民ノ饑寒日二切迫二趣ントスルノ状ヲ見テ、日夜憂苦シテ止マズ」「毫モ私欲ヲ挟マス、民ノ利ヲノミ之レ図リタルニ依り、真率二市民ノ信服スル所トナリ」(九〜十一ページ)たる状況がえがかれ、現在にもつうずる〃宮財癒着〃の実態が、「義人大塩平八郎ノ如キ者ヲシテ、大坂市中ノ大半ヲ鳥有ニスルノ暴挙ニ及バシメタル者ハ、実ニ大坂ノ豪商之ヲ媒スト言ンモ辞スル事ヲ得ベカラズ」三六頁)として鋭く批判されている。

 そして「徳ナク識ナキノ小人ヲ以テ路二当ルニ依り、苟モ吏治ノー端ニ任ズル者ハ宜ク民ノ準的タルベキ行儀ヲ修メテ廉潔ノ俗ヲ養フベキハ其専一ナル事ヲ知ラズ、日ニ小人驕傲ノ風ヲ長スルノミニシ、」「唯日夜ニ苦心スル所ハ朋党援引シテ其身ヲ立テ、其職ヲ前メ、威権二憑頼シテ百姓ヲ圧伏シ、過度ノ賦税ヲ徴シ、臨時ノ用金ヲ課シ、若クハ賂遺ヲ貪リテ私門ヲ営ムノ費ト為ント欲スル」(二九頁)のみだと、徹底的に宮僚の腐敗と民衆への圧政がやっつけられている。

 さらに幕政批判の思想は、次の点にまでおよんではげしく論じられており、現代にもあいつうずるものがある――。

 その一方で、同書には、書賈の河内屋喜兵衛らが「皆平八郎ノ門下」(四○頁)で、「在塾ノ者常ニ百人ヲ超エ、朝夕出入ノ門生ハ二百人ヲ欠カズ、文武ノ弟子千人二垂(ナンナ)ン」としたこと(五三頁)、さらに大塩=阿波徳島脇町岩倉村生誕・養子の養子説(一○七〜八頁)などが書かれ、従来の通説の再検討をせまる点も多く、今後のまじめな研究の発展が大いに期待される。なにしろ幸田成友『大塩平八郎』の問題点が今日では数多く指摘されるにいたっているだけに一層切望される。

 なお島本は、保安条例による追放後、大磯に居を定め、『東雲新聞』創刊(明治二一年一月一五日号)に熱烈な祝辞をよせ、「動モスレバ私説ヲ逞フシテ公正ナル我党ノ志望ヲ折カントスル者ナキニアラズ故ニ、この新聞が「一タビ出ル、恰モ天東雲(しののめ)ニ向ヒ、黒白始テ弁ジ、妖邪其跡ヲ蔵シ、善類其色ヲ愛スル如ク、人民自由ノ自真相ヲ弁ジ得テ、大ニ国家ノ隆運ヲ致サシ事期シテ待ツベシ」と、その大きな期待を未来によせている。また一月二十七日号では、政府の密偵政策を非難して、

と書き、さらに五月二十二日号では『甲府の峡陽与論新報(けうやうよろんしんぽう)』の社員となることを求められて承諾した旨を報じ、甲府に転じているのである。

 そして、憲法発布とともにやっと赦免にあい、東京にもどるが、日清戦争への軍靴の足音の高鳴るなかで、節を屈することなく、ついに明治二十六(一八九三)年一月二日に天国へ旅立ったという。松村巌が、「北洲は数奇以て身を終へるも、奇骨稜々。威武も屈すること能はず、貧に居て其の孤節を全うす。豈毅然たる烈丈夫に非ずや」(『土佐史談』第四九号)としるしているのも、むしろ当然というべきであろう。

五、おわりに ―太融寺に「国会期成同盟発足記念碑」の設立を!!―

 以上を要するに、大塩の思想的次元では憲法制定・国会開設要求・基本的人権など近代デモクラシー思想はまだなかったにせよ、@士農工商の巾ひろい同盟と、思想的・政治的結社の結成、後続期待の殉教者精神、A官財癒着・専制政治批判と町政刷新、B物価高騰・投機買占めの排撃と特権的町人・政商による独占的支配の打破、年貢諸役の減免と下からの民富形成、C困窮民・部落住民とも人間的に交流しようとするヒューマニズム・愛民の思想、質素倹約と奢侈移の禁止、富の偏在と不平等の打破、D救民と相互扶助など〃社会政策〃の実施等々、「未だ醒覚(せいかく)せざる社会主義」(森鶴外)の思想がはやくもめぱえ、ある意味では「自由民権思想までわずかに一歩」のところまで到達、近代民主主義思想を受けいれる受け皿をすでに用意していた。だから数多くの人たちが、陽明学から民権思想家へと発展していくことができた――。そこにまさに大塩らの思想と同事件のもつ画期的な思想史的意義があった、とみられるのである。

 今後の一眉の全国的な史料発堀と太融寺における「国会期成同盟発足記念碑」の年内設立、年末大阪で開催される「自由民権百年関西シンポジウム」の成功などを祈りつつ、ペンをおきたい。

<追記>昨年末、太融寺においてひらかれた「自由民権百年・大阪の集い」に元気な姿をみせられた、すぐれた郷土史家の米谷修先生は、同集会直後、さっそく大阪市当局に、私たちの要望をいれて、太融寺に記念碑を設立するよう、かさねがさね申しいれられた。だがその実現をみずにこの六月五日突如他界されたのは惜しみてもあまりあるところである。さいごに先生のご努力で成正寺に「大塩中斎の記念碑」が建立されたことをあつく感謝し、再び大阪市が熱意をもって米谷先生の〃歴史的遺言〃を年内に実現されるよう、切にお願いし、先生のご冥福を心から祈る次第である。(大阪産業大学 教授)



今古民権開宗・大塩平八郎言行録


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