Я[大塩の乱 資料館]Я
2000.11.10訂正 2000.10.16

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大塩の乱関係論文集目次


「失 望 し た 平 八 郎」

直木三十五(1891−1934)

『直木三十五全集 第20巻』(改造社 1935) より


◇禁転載◇

    一

 黒い煙が、噴出した瞬間、白い煙が、硝薬の臭ひと一緒に奔出し、同時に空気を突ん裂いて、炸裂の音が、轟いた。

(窮民を救ふのだ――悪政に、虐げられてゐる者が、救はれるのだ。窮民は、喚呼して集つてくるだらう――洗心洞の先生が立たれた――大砲を撃つて――わしが立つたと聞いたゞけで、志のある者は、招かずとも、集つてくるだ らう。跡部山城は、大阪中の人から怨まれてゐる――一人として、彼を怨まぬ者はない。人民だけでなく、彼の家来さへ怨んでゐる――わしが、窮民の為に立つたと知つたなら――仮令味方には参ぜずとも、跡部の指図のまゝには動くまい)

 さう考へてゐる平八郎の、左から、右から、塾生の若者は袴をからげ、竹胴をつけ、小具足だの、鎖鉢巻だの――そして、皆、手槍をもつて、平八郎に挨拶しながら、走つて行つた。

(大阪中の人は、わしの味方をするだらう。不平な、食へぬ浪人も、加勢にくるにちがひない――いや、それは、とにかく、窮民は喜ぶだらう。いくらかでも、そいつらが賑はへばそれでいゝのだ)

 平八郎は、左手に、手槍を提(ひつさ)げて、静かに、歩き出した。

 走つて行く若侍の後姿――手を振り、槍を振つて、何か叫んでは、又、走つて行く後姿。その叫びを聞いたらしい、通行人の周章てた走りやう――

(あいつらは、喜んで、自分の家へ、わしの、この義挙を知らせに行つたにちがひ無い。そして、今に、大阪中の人間が悪政に反逆して起つのみだ。もつと走れ、早く――)

 平八郎は、険しい眼の中へ、微に笑ひの表情を浮べた。

「先生、鉄砲を徴発して参ります」

 平八郎は、その声へ、振向いて

「よく、わしの志を説いて、借りてくるのぢやぞ、乱暴をしたり、脅かしたりして、持つてくることならんぞ」

「良く、心得てをります。行つて参ります。本島」

 一人の若侍が、一人朋輩と、はしつて行つた。

    二

「鍵屋」

「主人は居るか」

 大砲の音にいぶかつてゐた番頭は、けつかいの中から走り出てきて、

「御用向は?」

 といって、蒼くなつてゐた。手槍を突立てた、若侍は、その顔を睨みつけて、

「年来の不作の為、米高がつて、天下一統難渋してゐるのを存じてをらう?」

「はい」

 番頭は、手を突いた。女中だの、小僧だのが薄暗い土間に立つたり、暖簾から不安さうに覗いたりして、侍達を眺めてゐた。一人の侍が、小僧に、

「米蔵へ、案内せい」

 と、いつてゐた。

「然るに、城代跡部山城の支配向き、悉く、その意を得ず、大阪中の人民は、餓ゑ――中には、餓死した者も少くはない。存じてをらう」

「はい」

 一人が、

「論じてゐては、手間がかゝる。番頭、米蔵を開いて、在米一切を表へ運び出せ。愚図々々申すと、これだぞ」

 手槍を突出した。

「一応、筋道を申してをかぬと、先生の志に反(そむ)く」

「皆様は――どちらの?」

 と番頭が、おづ\/と聞いた。

「天満、洗心洞の門人ぢや、怪しからんぞ、当家は」 「ヘえ」

「有余つた、金、米をもちながら、何故、困つてゐる者に施してやらん」

「ヘえ」

「米蔵へ案内しろ」

 主人が、唇を、頬を、痙攣させながら、蒼白になつて出て来た。そして、

「主人で御座ります」

 と、いつた。若侍は、その顔を睨みつけて、暫らく、黙つてゐた。

「たゞ今、お聞き申しますと、大層手前が悪者のやうで」

「悪者ではないか」

 主人は、烈しく、首を振つて、

「手前共は、手前共相当に、公方様へ忠勤を励んでをります。天保初年以来、献金だけで三度、ざつと、この金高が二千両――」

「黙れ」

「その金の中には、借金をして――」

「借金もできずに、餓死する者のあるのが判らんのか?」

「それは手前共の――」

「うるさい。米を、悉く、表へ運び出せ、さまたげすると捨ておかんぞ」

 表には、人が集まつてゐた。隣も、向ふも、戸を、周章(あわ)てて閉じてゐた。街の中に、どよめきが起つて、だん\/大きくなつて行つた。

「洗心洞の方々ともあらう人が、押込み同様の――」

「何をつ、押込み?」

 一人が、主人の、胸を突いた。

「火をかけろつ」

 と、一人が、怒鳴つた。

「かけるなら、かけなされ。大名といや、町人に金を借りて踏倒し、公方といや、献金せい、献金せいと絞りとつて――貴下方、侍は、泥棒同様の――そ、それで、町人が立つて行くか」

 二三人が、草鞋のまゝで、踏上つて、主人を、叩き倒した。女房が、泣き乍ら、走りでてきて、

「堪忍して」

と、手を合せた。

    三

「おうい、えらいこつちや」

 泥溝(どぶ)板を、踏鳴らして、長屋の一人が、走つて入つてきた。そして、一軒の表口で、

「鍵屋へ何んやしれんが、浪人者が、大勢入りよつて、米蔵から米を引張り出しよつてな」

 長屋の、それ\゛/の門口から、男が、女が顔を出した。

「その音が、ガヤ\/聞えてるのは」

「そや」

「そして?」

「施行や、施行やいうてよつたが、何や判らんので、貰うても来られへんし、行てみんか、誰ぞ」

 一人が、草履を履いて、走つて出た。そして露次の入口から、東の方を、ちらつと見ると、すぐ、中へ振向いて、

「火事や」

 と、叫んだ。長屋中が、物音を立てゝ、叫びつゝ、怒鳴りつゝ――子供は、跣足のまゝで、女は、湯巻の上へ、布子をきたまゝ。男は、手内職の、糊箆(のりべら)をもつたまゝ、どかどかと長屋の入口へ、並んだ。

「燃えてくるがな」

「火事やさかい、燃えるがな」

「あゝ、侍がきよつた。何や、いふとうる」

 二人の若侍が、

「窮民は、行つて、勝手に取つて来い。鍵屋の前に、米の施行があるぞ。天満の大塩中斎先生のお志だ。早く行けつ」

 と、叫びつゝ、歩いてきた。その後方からも、同じやうな侍が――だんだん、数多く成りつゝ、近づいてきた。

「大塩中斎?何んや」

「先生や、いふとるで」

「何の先生や」

「知らんけど、先生や」

 一人の男が、

「風下やがな。うかうかしてたら燃えてきよるで」

「知れん、危ないで」

 街の中は、戸を閉ぢる音と、家財を纏める音とで、一杯になつてきた。何処から、逃出してきたか、もう、車の上へ、家財を積んで走る者、風呂敷包を肩にして、走つてくる者がちらちらしかけた。

「行つてみたろか」

 一人の若者がいふと、

「阿呆、殺されたら、何うする」

 と、一人の女が、叱つた。

「米の施行や」

「この、せち辛い時、たゞで、施行するかいな。あんなことをいうて、本当に、行たら、何んな目に逢ふか――」

「あゝ。やりよつた」

 人々が、その男の凝視してゐる方を見ると、槍が、刀が閃いてゐた。白い煙が、西の方へなびいて、人影と、どよめきとが、一杯に――だん\/高く、だん\/近くなつてきた。

「荷造せい。愚図々々してたら、焼けてくるぞ」

 人々は、一時に、長屋の中へ、走つて入つた。

「鴻池で、米の施行だ」

 と、いふ叫びが、聞えてきた。

    四

 煙は、だんだん白く、黒く、盛んになつてきた。町々の火の見櫓、屋根の上には、一杯に人が昇つてゐた。

 狭い町の中は、荷物と、人と、叫びと、車とで、充満してゐた、その中を、若い侍達は、

「難渋の者は、鴻池の前へ行け。米の施しがあるぞ」

と叫びつゝ、槍を閃かして、走つた。

「米の施しどころか」

「米を一升もらうて、家が焼けたら、何うすんね」

 焼ける町の近く、避難する人々の町の人間は、誰も、その騒ぎの中で、米をとりに行かうとはしなかつた。

 平八郎は、高麗橋の、橋詰めに鉄砲組を置き、自分も、同じ柳の大木の蔭に、匿くれながら、対岸の火の手と、喧騒とを、ぢつと眺めてゐた。

(犠牲者の出るのは仕方が無い――)

 橋の上を、一人の老人が、頭を押へながら、二人の男に抱へられて、よろよろと、走つてきた。

「無茶しやがる。無茶やがな」

 と、老人は、狂的に叫んでゐた。

「話をしたら、判るがな――それに、火までつけくさつて洗心洞の、泥棒め」

 一人の侍が、

「待てつ」

 と、叫んだ、平八郎が、木蔭から、

「立見つ」

 と、叱つた。立見は、平八郎の眼をみて、鍵屋へ、突出さうとしてゐた槍を引いた。

「殺せつ」

 と、老人が叫んだ。二人の男が、それを押へて、走りかけた。

「殺しやがれ。侍、侍つて、知行を頂いてるのは、誰のお蔭ぢや。わしらが、夜も眠んと、働いた金を、幕府へ献金々々と、取上げられて、その金が、知行になるのぢやぞ。それに――」

「旦那様つ」

 と、番頭が、押さへた。

(献金の出来る、身分の者に、餓死する人間のことが判るか)

と、平八郎は、思つた。

(三人、五人の大町人の犠牲が、大阪を救ひ、やがては、日本中の窮民を救ふのだ)

「先生の、何のと、本に、火をつけと、かいてあるかい」

 老人は、頬を青く、腫上らせて、まだ叫んでゐた。

「たわけがつ」

 と、立見が、鍵屋の後姿を、睨みつけて怒鳴つた。

 火がだん\/拡がつて行つた。太鼓が、半鐘がけたゝましく、打出されてゐた。町角の群衆が、どよめくと、同心らしい侍が、走つてきた。若侍が、

「どこへゆく」

と叫んで、槍を突出すと、すぐ、逃げてしまつた。群衆は平八郎らを、遠巻きにして、眺めてゐるだけで、

「鴻池に、米の施行があるぞ」

 と、いつても、橋を走つて行く者が無かつた。たゞ、対岸の火事の、ます\/盛んになるのを眺めてどよめいてゐた。

(何をしてゐるのか、あいつらは?)

 平八郎は、火事と、自分とを、見物してゐる町人に怒りが湧いてきた。

(わしの志が、判らんか? 同じ町の人間の飢ゑてゐるのを知らんか? それを救ふために、かうしてゐるのを、扶けやうとは考へないのか?――鴻池の、有り余つた米を何故、とらぬのか?)

 罪は、自分一人が負ふのに――何故、この心が判らないのか――平八郎は、人々を睨みつけてゐた。

    五

「金を出せつ、金をつ」

 七八人の、どんつく布子をきた浮浪人のやうな、遊び人のやうな男が、騒ぎに近い町の大町人を脅かした。 「大塩さんの家来や。困つた奴を、助けたんね。金を出せ金を――」

 家族の人々は、奥の間で、顫へてゐた。一人の男が、

「この娘は、別嬪やで」

「娘ゐるか?――娘でて来いつ]

 と、叫んだ。往来は避難する人々で一杯になつてゐた。

「よつしよい」

「よつしよい」

 と、懸声しながら、車の上へ、米俵をつんで、四五人の不逞らしい、薄汚ない男が、牽いてきた。

「待て、待てつ」

 と、叫んで、群衆を突のけて、若侍が二三人、

「何処へ、持つて参る」

「へい、わてら、木津の者でしてな、施を聞いて、町中の貧乏人から頼まれましてなあ」

「偽りでは無いな」

「滅相な」

「偽りなら、斬りすてるぞ」

「へえ」

「行けつ」

 一人が、ふんと、鼻で笑つた。侍が走つて行つてしまふと、

「へゝんや。暫らく、うまい酒がのめる、なあ、久公」

 往来の、忙しい、行きゝの人々の中の一人が、

「あいつら、平六の子分やないか」

「悪いことさらすで」

「ほんまに、貧乏な人いふたら、数へるほどより、取りに来よれへんがな。後は、乞食と博奕打ばつかりや」

「泥棒までせんでも、何んとかなるさかいな、高々、千石か二千石の米の施しの為に、どや、この煙は――ずゐ分、迷惑してる人があるで」

「米代より、うんと高い火事代やがな」

「学者て、こんなもんや。算盤が、判らへんでな」

 乞食が、いつの間にか、どこからか、鴻池の米の周囲へ集つてきて、窮民がくると、嚇したり、撲つたりして、どんどん自分の巣へ、運んで行つた。鍵屋は、その外は、浮浪人と遊び人の所得になつた。周章てゝゐる人々の家の中へ荒くれ男が、三五人づゝ、土足で乱入しては、金品を掠めて行つた。

 戸を閉ぢると、火が恐ろしかつた。火を避ける用意をしてゐると、人が恐ろしかつた。それは、町家も、長家も、貧乏人も、物持も、同じであつた。

「何が、窮民お助けや。えらいことを、さらして、ど阿呆が――」

 と、人々は、平八郎へ、怒鳴つた。

  六

群衆が、どつと、乱れ立つと、二つに割れた口から、鉄砲をもつた侍が、二三十人も現はれた。

「それつ」

平八郎の人々は、岸の堤下へ、橋の欄干へ、柳の蔭へ身をかくした。それと同時に、城内の人々も、家の軒下へ、木蔭へ、身体を隠した。

(一人として、援けようと、駆つけてきた者も無い。一人として、礼をいひにきた者も無い。然し――それもいゝ、窮民さへ、助かれば――)

 平八郎は、だんだんと、現はれてくる城内の侍が、案外に敏活に、整然としてゐるのに、憎しみが起つてきた。

(跡部等の命を受けて、この、わしを討ちに参るなど、それでも武士か、人間か)

 平八郎は、三十人余りの人数を、見廻して、敵の人数と比較してみた。

(半日、支へたなら、きつと、加勢がくるであらう。――もし、加勢が来なくつても、夜に入つたなら――そして、わしの志のある所が、だん\/、よく理解されて、大阪中へ拡まつたなら――この、敵だつて、わしの心を知つたなら――さうだ。あの逃げて行く、町人共も、わしの心中が判つたなら、きつと、敵の背後から、敵はぬまでも、斬込んでくれるであらうが――)

 平八郎は、かう思つた時、侍の後方で、馬から降りて、ぢつと、こつちを見てゐた侍が、手を揚げた。平八郎が

「撃てつ」

 と、叫んだ。敵と、味方とは、同時に、白煙と、爆音とをたてた。

「人のために倒れるほど、尊い事は無いぞ、皆死ね」

 平八郎が叫んだ。一人が、よろめいて、肩へ手を当てた。ぴゆーんと、弾丸が、掠めて飛んだ。一人の侍が、木蔭から逃げ出して、堤の下へ入つた。敵は白い煙の下から、ぢりぢり進んできた。五倍以上の鉄砲数をもつた敵であつた。二人――三人、五人と、平八郎方は、素早く立つては、次の物蔭へ、退いた。

「人の為に、己を犠牲に供することは――」

と、叫んだ時、一人が堤から滑つて、川の中へ陥つた。弾丸も、城兵も、だん\/増してきた。

(誰一人――この広い大阪中に、わしを援けてくれる者は無いのか? 窮民の為に立つたわしを、その窮民さへ、見すてゝおくのか)

 平八郎は、橋の柱の所から、左の敵を見、右の火事を眺めしては、睨み廻してゐた。

    七

「あかん、あかん――命から\゛/、米、三升や」

と、髭面の男が、走つて入つて、怒鳴つた。

「何うした?」

「何うしたて――お前、火事と、人込みと、お前、槍と、刀との中やで、女や、子供は近寄られへんがな、それに、お前米を、一斗も、そんな中、持つて走れるかいな。一里も走つてゐて、腹はへるし、草履は切れやがるし、えらい、元入れや」

 そういひつゝ、風呂敷を置いた。

「あゝ、恐かつた」

 大きい声がした。

「お前も、戻つてきたか」

「あゝ、恐(こ)は、ごろつきがゐよつて、米を取らうとしたら、こらつ、と、刀を突きつけよつて――危ないから、加島屋の前へ廻つたら、もうちやんと、お城から役人が出張つて来て、米を持つて返つたら、盗賊とみとめて、斬罪にするぞ、や、走り損の、疲(くた)ぶれ儲け、あゝ、しんど」

一人は、破れた格子につかまつて、身体をもたせた。

「えらい火やな」

「消そいふたかて、乞食や、ごろつきが、うろついとつて、手当り次第に、家のなかを、盗みに入つとるやろ。火消しが行くと、こらつと、刀や、手がつけられへん」

「張本の何んたら先生は?」

「大塩はんか」

「ふむ」

「逃げよつたといふ噂やけど」

「火事の中で、施しするなんて、学者てちがふたもんや」

「然し、えらいな、命を投出して、人を救はうといふのは」

「この辺の人は、火事に逢はんさかい、そんなことをいうて称(ほ)めてるが、天満から、島の内の人は、ぼろくそにいうてるぜ。施すやつが、明日から施される奴に、早変りするのやさかい、つらいがな」

「そらそや。救はれた人より、火事に逢ふた人の方が、多いさかいな」

「いらんこと、しよるな」

「いや\/人を助けて――えゝと、身を殺して仁をなす、といふことがある」

 いつの間にか、周囲の人々が、集つてきてゐた。低い屋根越しに、薄く煙が見えてゐた。屋根の上には、人影が、たくさん、北の方を眺めて立つてゐた。

「よう燃えよるぞ」

と、上から、下へ、笑ひかけた。

    八

(わしが、生命を賭して、人民共の為に、戦つてやつたのに――)

 平八郎は、袴を棄て、刀を棄て、頬冠りをして、裾を端折つて格之助と二人、人々と、煙との中を、走つてゐた。(門人達まで碌々、戦はずに、逃げてしまつた。――城方は又、何故、あゝ、ちやんとしてゐるか?、跡部の家来の分際で――碌に、平素、調練もしないのに)

 城兵が出てくると、忽ちに、敗られて、逃出した門人に、腹が立つてきた。

(わしの逃げるのは、門人が敗けて逃げたから、仕方なしに、逃げるのだ)

と、思つた時、格之助が

「父上」と、低く囁いた。

「何」

「却つて、怨んでをります」

「誰が」

「町人共が」

「何と申して?」

「火事に逢ふたがため、却つて、迷惑したと」

 平八郎は答へなかつた。 (大義は、事の成否を問はん、その志の有無である)

 と、思つたが、口へ出さなかつた。

(大阪の奴らは、わしの心を、或は――いゝや、心は判つてゐても、己にかゝつた迷惑で、却つて、わしを怨むであらう。然し、それはちがふ。結果でなく、その動機の尊いのが真に尊いのだ)

 平八郎は、そう考へたが、腹の立つのと、失望との感じを何うすることもできなかつた。

 格之助は、父の身をかばつて、後方を、左右を警戒しながら、煙と、炎の下を、走り抜けて行つた。

 目をかけてゐた、藍玉屋彦蔵の宅の裏口から、案内を乞ふと、女中が恐る\/出てきて、二人を見て周章てゝ逃込んだ。二人は、その後方から、押込むやうに入つて行つた。彦蔵が

「先生」

 と、叫んで

「えらいことをなさいましたな」

 平八郎は、その「えらい」といふ意味が、ひどいことをしたと同じような意味に感じて

(彦蔵も、俺の心事を知らんな)

 と険しい眼をした、だが

「先生でなくては、できぬことで御座いますな、成る成らんは、時の運で御座います。これに、目が醒めて、要路の方もよくなりませう、貧民は、まるで救ひの神のやうに、拝んでゐますよ」

「さうかさうか本当か」

 平八郎は、微笑した。そして

「格之助、疲れたなう」

 と、いつて、膝を崩して、坐つた。



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