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(前略)
大塩中斎は幼時碩果に従ふて句読を受けたりしが、大学の素読に、与其有聚斂
之臣寧有盗臣の句に至り、寧といふ字の訓を覚えざりけるより、碩果は記憶の
法を授けて、下に敷く筵席のことを覚えて居れと教へけるに、翌日来りて復習
する時は、『其の聚斂の臣あらんよりはゴザ盗臣あらん』と読みたるより、後々
までも話草と為りけり、其の大塩既に長じて天保八年の乱を起せし時は、師の
碩果火を難波の医師谷川氏に避けしが、懐徳堂は幸ひに兵火を免れたりき。
碩果の門人相応に多かりけんも詳ならず、姪の並河寒泉は別に伝あり、別に伝
あり、其の他には竹山に従学せし岩村南里も碩果の教を受けたりと見えて、童
孩奉 教と記したり、山田孝堂(通称は養節といへる播州の医者)懐徳堂に学
びて碩果に師事し、後ち帷を大阪に下し、尋ぎて小野藩の儒員と為り、維新の
際には藩の学事に尽力せしもの、亦高弟の一人ならんか。碩果は大塩乱後四年
にして山陽歿護九年なる天保十一年三月廿四日に病歿せり、享寿七十なり、此
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の春の試筆に、舌存猶坐新皐比歯墜唯甘小宰羊の句あり、其の徒に授けて倦ま
ざりしを見る、門人私に諡して文正と曰ひ、誓願寺の先塋に葬れり、碩果の配
は篠田氏、一男八女を生みしも、男は夭して嗣子なし、是より先き姪の並河寒
泉を養ひて嗣と為し、碩果は教授寒泉は学校預と為りしが、寒泉故ありて本姓
に復せしより、更に従弟柚園の幼子修治、後に桐園と号せしを養ふて嗣と為せ
しが、碩果歿して後ち、桐園を以て学校預人と為し、寒泉は教授と為れり。
(因に記す四女は夭し、長女は摂州歌島の医家小笠原孝治に、四女は並河寒泉
に、七女は大阪同心の笹脇正元に、八女は京都の儒医並河尚教に適けり、)
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中井碩果
(1771-1840)
中井竹山
の第7子
童孩
小さい子供
諡(し)して
先塋
(せんえい)
先祖の墓
適(ゆ)けり
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