Я[大塩の乱 資料館]Я
2014.10.7

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「大塩の乱関係論文集」目次


「養老院を創めた動機−大塩平八郎の如き意気に感じて−」

大久保素公

『太子に聴け』 最高理性社  1936 所収

◇禁転載◇

(一)磨砂売りの老人を助けて

管理人註
  

 或日よぼ/\した一老翁が、岩田氏の宅へ磨砂を売りに来た、斯んなに 年寄つた老人が、重荷を担いで、働かねば食へないとは、何たる惨酷なる、 世の中であらう、養ふべき身寄がないなら、誰か身寄に代りて、救護すべ きである、然るに其篤志家がないから、斯くは食はんが為めに、働くのを 余儀なからしめて居るのである、牛馬や犬猫を愛することのみが、動物愛 護の真精神ではない、老いて働くことの出来ない、この様に老人を無理に 働かせることこそ動物虐待の甚しき実例であり、それを現実に目撃し、種々 気の毒な身上話を聴いて、非常に感動したのであつた。  今日、一般に磨砂を売つて居る者は、年の若い青年が多く、自転車に磨 砂を積で、自転車の上から、磨砂、磨砂、と、大声に読はりつゝ、街の露 路から露路へ、郊外地の長屋に到るまで、たんねんに走り廻つて、スピー ドな行商をやつて居る。  今から三十四五年も昔、明治三十四五年頃は、自転車は非常に高価で、 一種の贅沢品に近く、舶来品許りであつたから、一般に今日の如く、自転 車を行商に利用することは出来ない、従つて磨砂の様な特種の商品は、一 人前の仕事が出来ぬ、耄碌した老人に適した、僅少の資本で出来る、商売 ではあつた、それにしても、余りにも惨酷に過ぎる、磨砂売り老人の身上 に、同情して金品を恵み、何くれと世話したのが動機で、養老事業を創め たらと思ふ様になつた、けれども、その頃社会事業といつたら、社会主義 と混同され、一般から危険視され、警戒さける状態で、慈善事業に対して、 社会は非常に冷淡であつた。  老いて尚ほ働かねば食つて行けない人は、誠に気のではあるが、若い頃 からの不心得が原因で、謂はゞ身から出た錆だ自業自得だ、勝手に苦しん で居るのであるから、若者を戒めるよい手本である、その様な人のことを 心配するは、金持の道楽ならいざ知らず、出過ぎだ不要のおせつかいの如 く解せられ、養老事業に対する一般の認識は、甚だ不足して居つたのであ る、さういふ訳で、折角であるが、聊か躊躇して着手を見合せて居つたが、 其後に於ける社会現象は救民救護の対照が益々激増して、従来の制度では、 全く機能を全ふし得ない有様となつて来た、則ち明治七年十二月太政官令 を以て制定されて居つた、「恤救規則」は、当時の社会情勢に即しない有 様であつた、こゝに於てか帝国議会に於ても相当議論せられる様になつて、 各方面に多大の刺激を与へ、民間の先覚者も漸く蹶起するに至り、大阪の 私設社会事業も其頃十五団体程あつたが、余程活気を呈するに至つた。

岩田民次郎
(1869〜1954)
大阪で初めて
養老院を設立

(二)留岡幸助氏のお話を聴いて決心

 
  

 この様な雰囲気の中で、創生の悩みに独りやきもきして居つた時しも、 明治二十九年来棄児、孤児、貧児の世話をされて居つた、汎愛扶植会の加 島敏郎氏から、内務省の留岡幸助氏といふ方が、大阪商業会議所で講演さ れるから、聴きに来いといふお誘ひを受けた、明治三十五年の夏であつた、 早速出席して見ると、既に予定の時間は過ぎ去つて居るのに、聴衆は僅か に十余人といふ有様である、大阪といふ所は慈善の話といへばこの様に不 熱心な土地であると、大いに憤慨し、なさけなくも思つたが、この様な始 末ではどうにもならぬ、頭数も殖やしたらよいといふので、大騒ぎをして 事務員や小使などを狩り集め、漸つと講演会は開かれたのであつた、留岡 氏は外国に於ける各種の社会事業を説かれ、養老事業があることをお話さ れた、予々やらうと思つて居た養老事業が、既に外国では立派に経営され て居るのである、これは愚図/\して居る場合でないと、非常な感銘を受 けた、然も留岡氏は言葉を続けて、この大阪の地は大塩平八郎があの様な 義を以て立つた所である、どうか第二の大塩平八郎といふ様な人が、今大 阪から出てほしいと煽てられたのであつた、非常に結構な講演が終つて、 更に留岡氏に色々な質問をなし、教へを請ふて帰つて来た、そして愈々養 老院をやる決心をしたのである、故郷である岐阜に養老の滝で有名な、養 老孝子の古き故実が伝へられて居る、岩田氏が養老事業を志したのは、蓋 し故なきに非らずといつてよからう。













煽(おだ)て
 


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