Я[大塩の乱 資料館]Я
2008.4.16

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大塩の乱関係論文集目次


「周の武王と大塩平八郎」

大町桂月(1869−1925)

『行雲流水』博文館 1919 所収

◇禁転載◇


 周の武王、八百の諸侯を率ゐて、無道なる殷の紂王を討たむとするに当り、その馬前に立ちふさがりて死諫したるものあり、伯夷叔斉の二人、これ也。其言に曰く、父死して未だ葬らず、こゝに干戈に及ぶ、孝と云ふべけんや。臣を以て君を討つ、忠と云ふべけんやと。左右、之を殺さむとす。武王曰く、義士なりと。扶けて去らしむ。二人、西山に入り、周の粟を食はずとて、断食して、泰然として死せり。一死、夷斉に在りては、鴻毛よりも軽し。武王を諫むるの時、既に死を決したる也。然るに、武王は、我言を用ゐず、刀も加へもせず。止むを得ず、西山に入りしが、殷は亡びて、周の天下となれり。独力空挙、また如何ともすべからず。義、武王と共に天を戴くべからず。終に死して、其志を全うせり。人間の道念の最高処に達せるもの也。司馬遷、史記に於て、之を特筆し、韓退之、伯夷頌をつくりて、之を謳歌し、浅見絅斎、靖献遺言を編みて、劈頭第一に之を収め、天下後世永く之を仰ぐ。我国にても、前には稚郎子皇子動かされ給ひ、後には水戸義公も動かされたり。漢文を読むもの、苟くも道念あらば、誰か夷斉を仰がずに居らるべき。

 余は、夷斉を仰ぐと共に、また武王を仰ぐもの也。されど、当年、靖献遺言を読みし頃には、武王を仰がざりき。たゞ叛臣とのみけなしたりき。今にして思へば、これ我日本の国体より推して、武王を判したりし也。支那は、古来我日本とは、国体を異にす。我日本は、開闢以来、 一王赤子の国也。支那は、革命の国也。民を主とす。王たるもの徳ありて民をよく治むればよし、徳なくして民を害すれば、他の徳ある者代りて王となるといふの国体也。周の武王の如きは、八百の諸侯、一致して盟主と仰げり。以て其徳の大なるを知るべし。天下の人心、既に紂王を去りて武王に帰す。武王起つて天下を治む。これ支那の国体に在りては、必ずしも、日本流の判断を下して、叛臣とのみけなすべきにあらざる也。一方には、余はあくまで夷斉の人物を仰ぐもの也。然れども、武王の心を思ひやるに、八百の諸侯の面前にて、風来ものに、不孝の子なり、不忠の臣なりと罵倒せらる。これが真に人君たるの徳なき小量の人ならば、必ずや疳癪を起さずには居られざるべし。もしも武王が平清盛や織田信長の如き人ならば、この没分暁漢、打殺して仕舞へと怒鳴りしなるべし。左右之を殺さむとしたるにても、その場の有様は、推して知るべし。然るに、武王は、さすがに、人君の徳ある偉人也。義士なり、殺すなどの一言は、これ決して偽善の言には非ず。武王が兵を起すに至れるには、天地に俯仰して、毫も疚しからざるの道理もあれば、自信もあり。夷斉は、たゞ武王の形を見て、その腹を知らざる也。我腹を知らざるは、人君の徳を解せざるに由る。つまり智なきの致す所、むしろ憐れむべきも、相手にとりて怒るべきには非ず、夷斉こそ武王の腹を解せざれ、武王は、夷斉の腹を解し居る也。夷斉の義は高し、されど、腹は小也。武王を容るゝ能はず。武王の腹は大也。夷斉の義を容れて余りある也。その馬前の苦諫の如きも、度量なき人にこそ疳癪を起すに足れ、武王にありては、力なき小児の大鐘を撞くが如し。これくらゐの撞き方にては、武王の大鐘は鳴らざる也。義士なりとて殺さざるは、これ武王が夷斉の腹を解したるより出でたる也。読者にして、もしも、武王は偽善者では無きかとの疑念を起すものあらば、請ふ直に反省して、虚心平気に、人君の徳といふことを考へて見られよ。人君の徳といふものは、武王がわれを罵倒する風来ものをも義士として容るゝまでに達すべき筈のもの也。

 余が斯く夷斉をも褒め、武王をも褒めるを見て、或は帰着に迷ふ人もあらむか。さらば、請ふ静に余が批評の立場の異なれるを察せられよ。余は、人臣として夷斉を見る也。人君として武王を見る也。夷斉は、実に人臣として、理想の頂上に達したる人也。武王は、実に人臣として、理想の頂上に達したる人也。われもし人に長たる場合には、必ず夷斉の如き人を敬して用ゐむ。われもし人に臣たる場合には、必ず甘んじて武王の如き人に一身を捧げむ。

 夷斉は、実に東洋の道徳史上の偉人也。その道徳は、人臣としての道徳也。司馬遷、韓退之、下つて、浅見絅斎にいたるまで、天下の識者は、夷斉を義士と仰ぎたるが、当時夷斉に、面折せられたる武王は、既に之を天下の義士とほめたり。夷斉の知己と云はざるべからず。高い哉、夷斉。大なる哉、武王。われ夷斉に於て、人臣の義を見、武王に於て、人君の徳を見る也。

 大塩平八郎は、一面は大阪の与力なりき。一面は陽明学者として名ある人なりき。而して天保年間、大阪にて一揆を起したる人なりき。之を周の武王に比するは、提灯と釣鐘、人必ず意外に思ふなるべし。唯武王の事を挙ぐるや、夷斉の諫むるあり。而して武王は之を義士なりと褒めたり。平八郎の事をあぐるや、宇津木静区といふ門人之を諫めたり。而して平八郎は之を殺したり。余は、この二事だけを比較して、人の徳といふことを説かむとする也。

 われ曾て宇津木が其父におくりたる遺書を見て、その男らしき心掛に感泣したる事あり。その書の大要に曰く、大塩先生の一揆を起さむとする事を聞けり。これより往いて、大に諫め申すべし。されど、諫めて聴かざれば、師弟の義、よそに見るべきに非ず。先生と生死を共にすべし。よしや、独り免れむとするも、謀の洩れもやせむかと殺さるゝに相違なし。断然死を決して、往いて先生を諫めむとす。事急也。帰国して心事をのぶる遑もなし。親に先立つ不孝の罪は何卒御許し下されよと。父もしわけの分りし人ならば、必ず我子の心掛を諒とせしなるべし。平八郎もし徳のある人ならば、必ず弟子の心事を諒とせしなるべし。宇津木は、死を決して往いて諫めたり。平八郎聴かず。部下のおもだちたる者。宇津木の虚をうかゞひて之を殺せり。平八郎之を黙許せり。謀の洩れむことを恐れし故に、殺したるべけれど、宇津木の腹を見抜くの明かなかりし也。さもしき与力根性の致す所と譏られても、平八郎は弁解の辞なかるべし。余を以て見るに平八郎はあわて過ぎたり。人に長たるの徳もなければ、一揆を起すに足るの胆力も無し。終にこれ無謀の事をなす草賊の雄たるに過ぎずと思はるゝ也。既に宇津木の腹がわからぬまでに徳の無き人なれば、無論、周の武王の腹はわからざるべし。平八郎の如き人は、必ずや武王を目して、偽善者と云ふなるべし。肝胆相照すとは、偉人同志の事也。腹の無きもの、安んぞ人の腹を知らむや。

 われ武王に於て、人君の徳を仰ぎ、平八郎に於て、徳なきを憐む。徳なくして、事を挙げむとするは、無謀也。才智を揮へば、揮ふほど、其拙ます\/あらはる。人生、才智は得易し。徳を得るが難き也。

 元来、儒教は、修身、斎家、治国、平天下の教へ也。修身、斎家のみならば、耶蘇教でも、仏教でも、それ\゛/良き教あり。治国、平天下の思想にいたりて、始めて、所謂東洋趣味を見、儒教の特色を見る。夷斉の如き人君の義は、修身の部にふくまる。更に進んで、武王の如き人君の徳を解せずんば、治国平天下の真意は、わからざる也。従来の漢学者の中には、漢学の長所を得ずして、余弊のみを得たる人少なからず。例へば、一身の功名に急にして、妄りに不平を起す者、己れを潔うせむとのみ力めて、国家の大事を誤る者、学芸を自負して徳なき者、偏狭にして大体に通ぜざる者、聖人の教を狭く解して、時勢に適するを知らざる者、文字の末に拘泥する者、腹なくして才気のみある者、智慮なくして、妄りに慷慨悲歌して自から得たりとする者、妄りに世を譏り、人を譏る者、頑冥固陋なる者、礼節の形式に重きを置き過ぐる者などこれ也。かゝる人は、或は、夷斉を謳歌して止まるべし。されど、武王の徳の大なるを知らざるべし。もし事を挙げなば、平八郎の二の舞をなすに過ぎざるべし。斯の如きは、儒教を誤解したるもの也。靖献遺言を読むにしても、夷斉の高きを仰ぐと共に、武王の大を仰ぐを知らば、これ真に靖献遺言を読みたるもの也。決して腹なくして、妄りに慷慨悲歌するの人とはならざる也。さきに日清戦争あるや、また日露戦争あるや、日本人は、挙国一致、身を擲つて国難に当れり。余はひそかに喜ぶ、日本国民は、先天的に治国平天下の真意を解せる也。前の伊藤公、陸奥伯にしても、後の桂侯。小村伯にしても、一身の名声を後にして、国家百年の大計を先にせるの跡あるを見て、余は、儒教の真意を得たるを喜ばずんばあらず。今の漢学を修むるもの、願くは、眼を大局にそゝいで、治国平天下の真意を会得せよ。区々一身の功名に急にして、慷慨不平の徒となる莫れ。


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