Я[大塩の乱 資料館]Я
2002.7.6

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大塩の乱関係論文集目次


「大坂町奉行与力西田家文書等について
―与力史料評価視点の転換を求めて―」

その6

大野 正義

『大塩研究 第29号』1991.3 より


禁転載

五、西田家文書 (2)

 先述した本照寺の過去帳や西田家『由緒書』は、ほと んど情報が無いとされている大塩格之助に関して、実父 などの周辺情報が少しは見られる点で一歩前進であろう。 史料館叢書9『大塩平八郎一件書留』に収載の、「第 三部、別紙之分大坂一件書抜」中の『大坂表おゐて徒党 を企候主謀并一味之もの共親族名前書』の中で、大塩格 之助の個所に「実祖父西田八郎右衛門死」「実父西田八 郎右衛門死」と出ているが、これら両者の没年や戒名、 何時与力の見習いとなり、あるいは番代りをし退番した 等の情報も、西田家の史料が明らかにしてくれている。

 西田家は七代目と八代目で八郎右衛門の名前が連続し ているので、他家の史料に出てくる西田八郎右衛門の人 物特定の固定指標がぜひ必要である。

 なお、『大坂表おゐて徒党を企候主謀并一味之もの共 親類名前書』中の大塩格之助の実方の西田清太夫の部分 で、「養父格之助実父西田八郎有衛門死」とあるのは、 清太夫にとっての養父が、格之助にとっては実父に当る 人物だという意味であり、まさにそれに該当するのが八 代目の八郎右衛門(文次郎)なのである。堺組与力の岸 家から養子に来た人物で、七代目の養父の跡を継いだ寛 政九年の同じ年に養父八郎右衛門に実子の清太夫主税が 誕生したのである。その結果、後年自分の実子格之助を 13 大塩家の養子にせざるを得なかったらしい。

 また、「実父同人実方祖父西田八郎右衛門死次男、西 田清太夫」とある部分についていえば、清太夫にとって の実父は、格之助からみれば実方の祖父である西田八郎 右衛門ということであり、七代目の当主であった人物の ことを指している。評定所の史料と地方の史料とは何ら 矛盾がないのみか、地方の史料で評定所の史料を補強で きるのである。さらに、「格之助実方兄西田青太夫悴、 西田新之助、戌拾四歳」の記載も、逆算すれば文政八年 誕生ということになり、その頃の与力衆の習慣として誕 生年を一年早く朔及するという事情を考慮に入れたうえ で、千之丞正頼に該当することが判る。その隣の「右同 人三男、西田清三郎、戌六歳」についても、後に西田家 十代目の当主となる西田寿三郎が該当者である。このよ うな考証は関連人物について多くの枝葉に広げることが 可能であるが、いったんこれで打ち切り、次に西田家『親 類書』の紹介に移りたい。


「大坂町奉行与力西田家文書等について」 目次/その5/その7

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