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墓は、天満寺町橋東詰、成正寺内に在り。平八郎は大阪の胥吏にしで、
後素と号し、憤慨の士にして深く姚江の学を究め、帷を下して徒に授く、
天保七年、菜穀登らず、翌八年に至り、餓 、道に横はるや、平八郎、
官に請ひ、富豪に説き、百方賑恤を謀りしが、其の意を達する能はず、
終に乱を作せり。然れども幕府の鎮圧する処となり、終に敗れて、父子
共に自殺せり。事は世に嘖々たるもの、今爰に多く説くを須ひず。或ひ
は云ふ、平八郎は免れて外邦に去れりと、但、信じ難し。
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適宜読点
を加えて
います。
胥吏(しょり)
下級の役人
帷(とばり)
嘖々(さくさく)
盛んに褒め
そやすさま
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