Я[大塩の乱 資料館]Я
1999.6.28
2000.2.27修正

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大塩の乱関係論文集目次


「天保八年笠岡役所の触書」


−大塩平八郎の乱一味の探索「人相書」−

大江 大塚 宰平

『史談いばら 第24号』井原史談会 1997.4より転載


◇禁転載◇


はじめに

 この「古文書」は、今から九十年前に、私の父が当時笠岡町の女子小学校に勤めていたころ、同町内の某氏が所蔵していたこの文書の解読を依頼され、その後で貰い受けたとの経緯を幼いころ聞いた。

 今あらためて見ると、当時幕府の笠岡役所から「大塩平八郎の乱」に加わった一味の逃走者について、その行方探索の目的で出された人相書を記した触書きであることが分かった。文末に当時の宿老や庄屋の押印もあり、正式の文書であることは明らかであり、ここにその内容や関連事項について述べてみたい。

一、大塩平八郎の乱の発生について

○事件の背景

 大塩平八郎はもと大坂東町奉行所の与力であり、さらに吟味役を勤めて名声を挙げ、自らも良吏として自負していたようである。

 その彼の目から見て、どうしても許せなかったのは、天保七年以来の大坂の状況であった。

 歴史的にも有名な「天保の飢饉」は天保四年から同七年に起こった全国的な飢饉で、天候不良に起因する冷害・大風雨・洪水等の災害が続発し、それによって農作物は大被害を受け、米の収穫は全国平均四分作という慢性的な大飢饉の様相を呈した。

 このため、米価をはじめ諸物価は騰貴し、農村の荒廃が進み、農民や下層町人の離散困窮ははなはだしく、各藩領内で一揆や打壊しが続発した。そうした情況に対し、幕府はその救済策を講じたが、諸藩がこの危機に対処して飯米の確保に努めたことから、江戸や大坂への廻米が激減することになった。

 当時、大坂東町奉行は跡部山城守良弼であったが、彼は時の老中水野越前守忠邦の実弟である。  ちょうど、それまで将軍職にあった家斉が引退を表明し、天保八年に予定されていた新将軍家慶の就任に伴う祝賀のために、江戸へ送る米を確保する必要が生じ、大坂東町奉行跡部良弼はそのことにのみ奔走していた。それが兄忠邦の手柄にもなり、また自分の手柄にもなるからでもあった。

 天下の台所とされていた大坂に米が払底し、米価がいちじるしく高騰していたのにもかかわらず、跡部奉行にとっては江戸へ廻米する任務の重要性に比べると米価の騰貴がさらに促進する結果を招くとしてもそれほど大事には思えなかったのであったろう。

○大塩平八郎の怒りと決起

 もと与力であった大塩平八郎はこうした情況が許せなかった。彼は現職の与力 であった養子の格之助を通じて窮民の救済策を建言したが、奉行の跡部良弼は、隠居の身分であった平八郎が政治に口出しするなら強訴の罪に処すると脅かすばかりで聞き入れなかった。

 ついに大塩平八郎は挙兵を決意するに至った。

 彼は本来江戸時代の後期の陽明学派の儒者大塩中斎の名で知られ、家職の大坂町奉行所与力を辞任した後は、学問・著述に専念する傍ら、私塾「洗心洞」を開いて子弟の教育にあたった。このころ、たまたま父に従って大坂に滞在していた少年時代の阪谷朗廬が約五年間洗心洞に入塾し、大塩中斎について学んだことは地元の人たちのよく知るところである。

 陽明学は何よりも「知行合一」ということを主張する学派であり、正しいと知ったことは行動に移さなければならないとするのがそれであった。大塩平八郎の挙兵は、彼の主張した「知行合一」の一つの見本と見なすことができる。

 彼は挙兵を決意すると、門下生に砲術の伝習を急がせ、それと併せて武器を用意し、さらに、自分の著書千二百余冊を売り払い、その金で数多くの窮民に対し各一朱ずつ施与し、これによって蜂起に際して支持を期待したわけであった。

 挙兵の日は天保八年二月十九日と定めた。その日を選んだのは、当日が孔子を祀る釈奠(せきてん)の日で、門人たちか集団行動しても怪しまれなかったことと、当日は大坂東・西両町奉行が市中を巡視し、そのあとで休憩をとることがあらかじめ分かっていたからであった。

 この日、かの有名な「天より下され候村々小前の者に至るまでへ」という檄文が散布された。ついでだからその時の檄文を口語訳にして一部を次に示すことにする。


       摂津・河内・和泉・播磨の村々庄屋・年寄・小前百姓共ヘ
       天保八丁酉年  月  日                          
                                         (改訂史籍集覧より訳す)
二、乱の鎮圧と逃亡一味の探索

 大塩平八郎の決起に参加した養子格之助や門人ら約八十人の一行は右の檄文を まきながら「救民」の旗を押立てて大坂の市内の特に豪商の屋敷の多い町筋へ向 かった。その途中で大砲や火矢を放って家々を焼き払って進軍を続けるうちに、 大塩の一団に参加する者が増えて、後には七百人余に達したといわれる。

 こうして、大塩平八郎の乱は始まったのであったが、事のあまりにも重大なこ とを案じ、同志の一人に加わっていた東町奉行所の同心平山助次郎が事前に跡部 奉行に大塩の決起計画を密告し、同じく同心の吉見九郎右衛門が西町奉行にも知 らせた。

 これを知った両町奉行は、大坂城代土井利位に連絡し、鎮圧に出動した。大塩 方でも同志の一味を除いては烏合の衆に等しく、当初の勢いも長くは続かず、結 局その日の午後には鎮圧されてしまった。

 しかし、平八郎父子の行方は、執拗に探素したにもかかわらず、その後もなか なか判明しなかったが、ついに三月二十七日に至って大坂市内の隠れ家が発見さ れ、大塩父子は目刃して果てた。そのころ、なお一味に加わった者で行方の知れ ない逃亡者がいることから、それらの者の所在を突きとめるために出されたのが その対象者の人相書であった。すなわち、次に掲げる笠岡役所から各所へ出され た触書に示された通りである。

──────────────────────
古文書原文

(読み下し文)

今般人相書をもって御触れこれ有り候、大坂町奉行組与力大塩格之助父大塩平八郎並びに右格之助ほか四人の内、瀬田済之助、渡辺良左衛門は、河州路において自滅いたし、その余のもの共今に行衛相知れず候ところ、多分剃髪いたし候由風聞これ有り、すでに、右良左衛門そのほか大坂表騒動の節召捕り候もの共の内にも剃髪いたしおり候ものこれ有り、その上、去月二十日河州(河内)太子堂村佶蔵と申すもの、同国弓削村辺において、大小または脇差を帯び、連立ち候坊主三人に出逢い、右のもの共理不尽に佶蔵へ疵負わせ逃げ去り候由にて、右は、平八郎ほか弐人にほぼ引き当たり候よう相聞え、前書風聞の趣き符合いたし候哉の旨、大坂町奉行より申し越し、容易ならざる不届きに及び候もの共に付き、心得のため申し達し候条、その御預かり所村々ヘも申し聞かせ、油断無く召捕り方心懸けらるべく候。以上

     酉三月
右の通り仰せ出され候条その意を得、寺社修験小前末々まで洩れざるよう通達せしめ、召捕り方心懸けるべきものなり。
    酉四月
当二月十九日、容易ならざる企てにおよび、大坂市中所々に放火いたし乱妨に及び候元大坂町奉行組与力大塩平八郎に荷担いたし候大坂玉造口御定番組与力大井伝治兵衛久離せがれ大井岩大郎こと正一郎、大坂町奉行組同心河合善太夫せがれにて、先達て出奔いたし候河合郷左衛門等人相書き


             大井正一郎
 一 年齢弐捨五六歳ばかり
 一 顔細長ク色赤黒キ方
 一 層毛濃キ方
 一 眼常躰(態)
 一 鼻高キ方
 一 耳常躰(態)
 一 脊(背)高く痩せ候方
 一 言舌静かなる方
 一 その節の着用分からず

             河合郷左衛門
 一 年齢四拾歳ばかり
 一 顔色白キ方鼻の上疱瘡(ほうそう)の跡これ有り
 一 眉毛常躰(態)
 一 鼻常躰(態)
 一 右の耳たぷ変を呈しこれ有り
 一 中脊(背)中肉
 一 月代(さかやき)薄ク、髪赤キ方
 一 言舌常躰(態)
 一 その節の着用分らず
右の通りのもの共これ有るにおいては、その所に留め置き、早々大坂町奉行所へ中し出でるべく、もし見聞に及び候わば、その段も申すべく候。隠し置き、脇より相知れ候わば、曲事たるべく候。
      酉三月
右の通り仰せ出され候条、その意を得、寺社修験小前末々まで洩れざるよう通達せしむべきものなり。
      四月十九日
  笠岡
    御役所
前書の通り仰せ出され候条、その意を得られ、小前末々洩れざるよう相触れらるべく候。以上
                                                          宿老 印
                                                          庄屋 印
                                         西 本 町
                                         石 橋 町
                                         八軒屋町
                                         伏 越 町
                                         仁王堂町
                                         宮   地
                                         殿 川 町
                                         川辺屋町
                                         風呂屋町
                                         右町々
                                           年行司中
追って、この触早々町々順達、留り町より村役場へ差し返さるべく候。以上

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 これと同じ触書がこの時国内各地に届けられたはずである。それだけ、幕府にとって大坂市内で起こった大塩平八郎の乱は実に大きな衝撃であったとみられる。江戸時代にあって、与力というのは町奉行や城代等に隷属してこれを助け、同心を指揮してその任務を遂行する職柄である。そうした立場にあった人物が中心となって起こした上司への反乱であり、その動機が救民にあり、私欲に拠るものでなかったとされるだけに、世人と離れた私的利益を優先させた町奉行らの行為は、現代にもしばしば見られる事例と通じるもので、大いに反省を求めたいところである。



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