Я[大塩の乱 資料館]Я
1999.10.3

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大塩の乱関係論文集目次


「大 塩 の 乱 与 党 の 走 路
−僧形と順拝−」

酒井 一

『いずみ通信 no.20』1997.5
「研究手帳 7」(和泉書院)より転載

◇禁転載◇

 天保八年二月十九日(太陽暦一八三七年三月二五日)に、大坂東町奉行所の元与力大塩平八郎中斎が「救民」を旗印に時の政治腐敗を批判し、「国家」のあり方を問うて乱を起こしてから、今年は一六○年目に当たる。従う者三百人余、乱の衝撃は大きく参加者への捜査は厳重を極めた。大坂近辺の村々では井戸や池まで浚え、ときに屋根瓦まではがして調べたという。主な関孫者は全国的に張られた捜査網のなかでほぼ全員押さえられ、処罰者は七百人を超えた。

 このような厳戒体制のもとで大塩与党の中核をなした人たちがとった極限での走路と行動のなかに、はしなくも当時の行動文化としての旅や宗教性を考える貴重な手がかりが隠されているように思われる。

 一つは僧形となり、寺院へ走る動きである。大塩が現職時代町奉行の特命を帯ぴて西組与力弓削新右衛門一件を捜査したとき、「妾」ゆうは剃髪して一旦実家の曾根崎新地の茶屋に身を寄せ、積年の弊害に立ち向う危険な捜査の累が家に及ぶことを避けている。乱後大塩は終焉の地となる靱油掛町の美吉屋五郎兵衛方へ潜むが、夜中この戸を開かせた時俳諧師と称しており、五郎兵衛夫妻の申口では父子ともに僧体であったという。

 大塩門下の最有力オルガナイザーともいうべき河内守口宿の白井孝右衛門は、熊蔵(杉山三平)とともに河内大蓮(おばつじ)村の大蓮寺隠居所(知足庵)に住む叔父を頼って逃げたが、ここで剃髪して袈裟と経文をもらい、高野山への道筋を尋ねたと記録されている。

 走路の広がりと転変ぶりに鷲かされる河内弓削村の豪農西村七右衛門(利三郎、履三郎)も姉の嫁ぎ先である堺北糸屋町の医師松浦寛輔のもとで剃髪し、縁を辿って伊勢垣鼻(かいばな)村の海会寺、奥州仙台茂ケ崎の大年寺へ走った挙句、江戸の神田橋本町一丁目の願人冷月方に身を寄せ、木賃住いの托鉢生活中病死している。ちなみに海会寺は松坂に近い伊勢街道の脇の小高い台地上にあり、今は小堂を残すにすぎないが、近世期には寺域を除地され、付近は海会寺野とよばれ明治九年(一八七六)の伊勢暴動の時には一万人が集結したところである。大年寺も塔頭一五か院と末寺をもつ大刹で、ともに黄檗宗に属する。海会寺の住職は河内寛弘寺村甘露寺の先住であり、天保十一年には山城泉谷の法蔵寺から大年寺に住職として入山するなど、宗門の広域的な流れを示している。

 願人坊主は非人の扱いをうける宗教者であるが、たまたま正月のテレビ中継で中村富十郎が絽の黒羽織姿で「うかれ坊主」(願人坊主源八)を演じていて、その様相を教えられた。

 さきに触れた熊蔵は、もとは孝右衛門の出身地河内衣摺(きずり)村の庄屋で、領主淀藩の命に服さず、百姓の「腰押し」をしたため村払いとなっていた。乱の少し前に大塩邸に入るまで一時加賀の本泉寺に寄寓していたが、このルートは同じ真宗大谷派に属し、孝右衛門の檀那寺である守口町の盛泉寺の法流につながるものと推定される。

 摂津般若寺村の年寄柏岡源右衛門と河内門真三番村の高橋九右衛門もともに檀中として縁のある高野山真福院を頼り、山内大師の参詣を口実に止宿している。般若寺村の百姓代柏岡伝七も近くの野崎親音慈眼寺の観音堂に参籠する旨を伝えて、妹と娘が乱の前日から寺に入っている。この寺は門真三番村の茨田郡次家とも年来の仏縁があり、今も郡次の位牌が祀られており、この地域の観音信仰の中心であった。

 このような宗教性の比較的濃い側面とともに、もう一点寺社参詣を口実に潜伏する面も注目される。大塩が乱直前に、ゆう・養子格之助の妻みね・孫の弓太郎と女性二人を伊丹伊勢町の紙屋幸五郎方に隠したのもその例で、中山寺観音参詣と近辺の遊覧を口実にしていた。西国三十三か所霊場の一つで安産で知られる中山寺参りは、幼児をかかえた四人の女連れにいかにもふさわしい。

 もう一つ、河内尊延寺村才次郎は金沢出身でこの付近で日雇稼ぎをしていた新兵衛とともに、大和長谷寺近くの旅籠で同じく逃亡中の大井正一郎(大坂定番与力の枠)と曽我岩蔵(大塩格之助若党)に出会っている。大和路を彷徨して初瀬街道に入り、西国札所の長谷寺での邂逅である。このうち岩蔵を除く三人は、おそらく伊勢路を経てであろう、尾張・美濃に入って能登の福浦村の船宿喜之助宅に潜伏した。この時も、和倉温泉湯治と村内不動尊への参詣を口実にしている。ここは松本清張の「ゼロの焦点」の舞台になったところで、景勝地の岩壁に今も小さな不動尊が祀られている。この逃走ルートは加賀・能登にくわしい新兵衛の案内によるものであろう。さらに与力瀬田済之助が養父と妻子を大和五百井村の庄屋大方新大郎方へ逃がしたときも、間近の法隆寺参詣を挙げているのである。

 裁判記録に恵まれた大塩一件の走路にみる特徴は、乱の前年に起った甲州騒動の犬目村の兵助や嘉永六年(一八五三)の三閉伊一揆の三浦命助についてすでに深谷克己氏らによって明らかにされているそれと見事に符合する。十九世紀に盛行した観音順礼や寺社めぐりを口実にしたり、町方の捜査をまぬがれるために寺社奉行の管轄下の僧体となったことなど、当時の民衆の知恵と文化的到達点がここにあり、法華経普門品の「念彼観音力 衆怨悉退散」と祈ったであろう走路の中にこれを確めることができるように思われる。

 大塩の孫弓太郎は乱後大坂の牢に入れられ、時折牢外を散歩した姿が『甲子夜話』に記されている。その後の足取りは定かでないが、岐阜県関市の永昌寺に入寺したという伝承があり、ここは大塩家菩提寺の成正寺と同じ日蓮宗身延派の寺である。公的記録の紙背をしのばせるものとみるのは思いすごしだろうか。裁判記録にも出家の道を示唆した一節がある。

                   (天理大学教授)


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