Я[大塩の乱 資料館]Я
2000.8.1
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大塩の乱関係論文集目次
「講釈師の大家出づる」(抄)
関根黙庵 (1863−1923)
『講談落語今昔譚』雄山閣 1924 所収
◇禁転載◇
講釈師の大家出づる
初代東玉――大塩事件――初代典山――伊東と田辺――湯島の燕晋―高座の初め――笹井燕尉――田辺南窓――初代南龍――大南麟――一場の悲劇――三名家――燕凌の権式――初代伯円――鯛と秋刀魚――初代伯山――神田と田辺――名人の心掛――時代と世話――石川一夢――佐倉宗吾――松本龍谷――一九の欠落
講談が次第に盛んになるにつれ、名人上手も従つて続出した。初代桃林亭東玉(とうりんていとうぎよく)の如きは、即ちその一人である。東玉は通称を阿部桃次郎といひ、若年の頃は禅宗の僧であつたが、還俗して聖堂学問所の小使に住込み、夫より独立の講釈師になつて、始めの名を塚田太琉(たいりう)といつた。話術には天性の妙を得て居た。元来講釈は堅苦しいものであつたを、太琉は女子供にも解り易きよう、小説物語に摸し和らげて演じたので、これが時世に適ひ婦女子の聴客も数多(あまた)来るようになつた。講釈が堅い読口から、現今のやうな通俗に一変して来たのは、この
東玉に初まるといふ。
太琉は天保七年の秋名古屋に赴き興行したところ、聴客雲集し、数百人詰かけ、席へ入り切れず毎日断つて返す始末に、ある寺の本堂を借りて此処で開講し、毎日千人以上の聴衆を迎えた。この事が評判になつて大阪へ聞え、是非上阪して呉れと頼んで来たので、太琉は三十両の手金を受取つて、翌年の春大阪へ上つた。丁度此頃大阪では天保山を築いた時であつたから、如才ない太琉は、奉書六つ切ヘ『富士つくば、をいて見に来た、天保山』と自作自筆の句を摺物とし、土産として諸方へ配りまたこの句を書入れし暖簾を大阪目貫の髪結床(とこや)へ贈り、是が為めに一層の人気を呼んだ。
もとより太琉の上坂を待つて居たところとて、席亭へは毎日客の山をなしたが、その内大阪には、例の大塩平八郎の一件が始まつたので、市中の騒動一方ならず、太琉も拠(よんどころ)なく休業して、泉州堺又は高野山の附近へ赴いて開講し、これ亦当りを取つてゐた。その内大阪も静かになつたので、太琉は又同地へ引返し、機を見るに敏なる彼は、早速この大塩一件を読物に拵え『慶安太平後日の講釈』と題した看板を上げ、由井正雪 丸橋忠弥の事件と、今回の大塩事件とを加えて講演したから、聴客は一層前にも倍して集まつたが、三日目に奉行所から差止めの令が下り、中止するの不得止(やむをえざる)に至つた。
大塩平八郎は大阪東町奉行高井山城守実徳に用ゐられた天満組の与力であつたが、陽明学の造詣深く、当時天災地異相踵ぎ、凶作累年に及び、奸商俗吏と相結んで、良民塗炭の苦しみに瀕したを座視するに忍びず、殊に高井山城守の退隠後、その後を襲うた跡部山城守と意見合はず、退役隠居中、天保七年九月頃から同志を糾合し私財を擲(なげうつ)て砲車弾薬を用意し、檄を窮民に飛ばして時機の至るを待ち、天保八年二月十九日払暁巨砲一発、先ず大阪全市民の眠を驚かして、兵乱を起したのであつたが、味方の内より裏切者三名迄を出し、密告された為め、奉行の方も準備を整へて応戦し、嘗て大塩に救済を受け彼を神の如く尊敬せる窮民等は、雲の如く集つて大塩方を扶(たす)け、富豪の邸宅、倉庫を襲つて暴動したものの、元より烏合の勢であるから、一度(たび)大塩方の旗色あしくなるや、忽ち潰走して此兵乱は僅か一日の内に終りを告げた。併し何分にも青天の霹靂とて、大阪市中の騒擾は一通りでなく、大塩は失敗して一味の者も四散し、平八郎は養子格之助と共に一時姿を隠したが、二十四日の夜から三月二十七日まで、油掛町の美吉屋五郎兵衛方に潜伏して居たを、遂に探知されて廿七日の早朝捕吏の襲ふ所となり、平八郎父子は家に火を放つて自刃を遂げた。学識一世に鳴り、人格も亦勝(すぐ)れた人物であつたから、大塩の挙は失敗に終つても、天下の人心に与えた影響は非常なもので、幕府もこの大事件の跡始末にはいたく神経を悩まし、一年有半を費した翌年の九月十八日に至つて、平八郎に与した首謀者十九名を始め、百余名に夫々厳重な処刑(しよばつ)を加へ、一方人心の慰撫に努め、罹災者や窮民の救恤等 一時大に善政を施したのである。
この大塩事件の講釈が中止を命ぜられた為め、太琉は看板を書替て今度は『浪花侠客伝』と題し、阪地有名の侠客列伝へ、江戸の幡随院長兵衛を取入れ、面白をかしく演じたので、これ亦人気に投じ日々客止をする程の大入を取つた。彼の技芸を賞讃した贔屓の連中は、太琉を称するに関東の名玉を以てし、東(あずま)の玉と改称を勧めたので、太琉も喜んでこの言葉に従ひ、桃林亭東玉と改称することになり、祝として幟十三本を贈られた。要するに時機を察して人気を取るに長じた人であつたらしく、大塩事件などを即座に読物としたのは所謂際物よみの開祖であろう。
されば東玉を尊崇せる初代伯円、その衣鉢をついで後年東玉になつた二代目伯円も皆、際物を読んで好評を博した。今の伯知も伯円の門に出で、新聞を読物の材料にして居ること、矢張りこの系統に外ならぬ。
彼は東玉と改名し、益々その評を高めたが、収入の豊かな代りには遊興にも随分と精を出したと見え、散財も多く多分の負債が出来、これは堪らぬと同年五月 三十六計の奥の手を出して江戸へ帰つた。その大阪を立去るに臨み、一寸泉州堺まで行つて来る故、これを預つて呉れと旅籠屋の主人に紙包を渡し、今晩贔屓客の玉巻某へ渡してくれと頼み、其儘江戸へ来て終つたのであるが、旅籠屋では斯くとも知らず、其夜かの玉巻方へこの紙包を届けると、中から出たは五百枚計りの摺物で、「阪府も面白からぬゆえ、俄に古郷へ発足せり」と前書し『唐人が見たがる不二も見られ無い、こんな所に居るはいや/\』と記し、手紙が添へてあつたという。大阪のひゐき連は、大に腹を立てたさうである。
(後略)
本書は4度出版されています。
- 『講談落語今昔譚』雄山閣 1924
- 『講談落語考』雄山閣出版 1960
- 『講談落語考』雄山閣出版 1967
- 『講談落語今昔譚』山本進校注・解説 平凡社 (東洋文庫652)1999
著者の経歴等は最後の東洋文庫に詳しくでています。
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