白柳秀湖 (1884-1950)
寛政改革の 反動起る |
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御用商人請 負商人の御 馳走 |
御用商人、請負商人が各藩の役人を饗応する時、焼物台引、吸物、大平などいふものは曾て盛らず、台引に木綿、吸物に煙草入、大平に魚篭などを出したものである。 | |
馳走よりも 御土産 |
されば料理は僅に一汁三菜位でも其土産として出すものが大そうなものであつた。若し又膳に盛つた品物の多い時には残らず包ませて帰した。宴会のひけに料理を折詰にして帰る当節の風は此頃から始まつたものと見える。例の『我衣』に次のやうなことが書いてある。 | |
茶屋、吉原、 若しくは芝 居 |
『官邸にて饗応する時は、多費のかゝること故、或は茶屋、或は吉原、芝居にて留守居(諸侯の外交官)の会ありしより、何時となく官邸の饗応は廃し、留守居のもの費用を受け取り、右の所にて催すなり。市内に魚乏しき時は焼物と称し小鴨、或は鰹節、又は青銅二百文を引き、膳部は重箱にて持たせ、其宅々へ土産となしけり。』 と、驕奢華美の俗、賄賂授受の風、以て一般の弊害を推察すべきである。 | |
天保の大飢 饉来る |
風俗の廃頽と共に天災は再び頻々として起つた。天保二年、三年と、天変地異は相ついで人は皆天明大飢饉の昔を想起せざるを得なかつた。恐怖と危懼とは全国民を蔽うた。果然、大雨は来た。果然、洪水は来た。天保七年の日本は滔々たる濁水の中に漂うた。五穀不熟、米価騰貴、民に菜色あり、野に餓 | |
関東奥羽に 於いて殊に 甚し |
就中、関東、奥羽の地は殊に其惨害の甚しきものがあつた。草の根といはず木の芽といはず、野にあるものは凡そ夷げられた。牛馬はもとより、村里には鶏犬の声も絶えた。遂には百姓が麦の嫩芽を抜いて食とするに至つた。彼等は来るべき収穫の日を憂ふるの暇なきまでに飢ゑたのであつた。天保八年に至つて米価は更に騰貴した。白米一俵の価が金四両となり、四升の価が一分となり、翌年更に江戸市中の蔵米十俵の価が金四十五両に騰貴した。 | |
幕府の救貧 所 |
幕府は倉皇として救貧所を設け、貧民を収容し、一人に就き米三合銭四百文を給し、各々其職業とする所を営んで日に五十文を貯へしめ、百日にして退出せしむるの制度を立てた。窮民は蟻の甘きにつくが如くに集つて其数二万の多きに達したが、而もこれを天下の饑民に比べては到底九牛の一毛にだも及ばなかつたのである。 | |
改革といふ も実は姑息 の弥縫 |
天保の飢饉も天明の飢饉も、近因は天変地異にあつたけれども、其よつて来る根本の原因は徳川幕府の民政にあつた。都市に於ける資本集中の大勢にあつた。吉宗の政治や、定信の改革は其破綻の一端を彌縫したものに過ぎなかつたので、之によつて日本全国の民生が救済されたやうに思ふのは甚しい買ひかぶりといふものである。地方は依然として凶荒の中に放擲されて居たのである。其結果として地方には日本左衛門の如き強賊が横行し、都市には鼠小僧次郎吉の如き痛快な盗賊が現はれた。彼等は正しく時代の私生児であつた。彼等はもと盗賊である。而も時代が彼等を侠客として喝采したのは、其処に彼等の背後に云はんとして云ひ能はざる感情があつたからである。表はさんとして表はし能はざる意志があつたからである。其感情、其意志を黙して実行したものが日本左衛門である、鼠小僧である。 | |
鼠小僧は黙 して実行 |
日本左衛門が刑せられて九十年目、鼠小僧が刑せられて六年目、彼等が云はんとして云ひ能はざりし感情と、表はさんとして表はし能はざりし意志とを、其才学文章によつて堂々と天下に発表したものがある。大阪天満四軒屋敷の与力、陽明学者として有名な大塩平八郎其人である。 | |
陽明学者大 塩平八郎の 獅子吼 |
彼は天保の凶荒を見るに忍びず、自ら其蔵書を売つて救恤の資に当てると同時に町奉行跡部良弼に上書して官穀の施与を請うたが、其納れられざるを憤り、摂、河、泉、播州の村々に檄して同志を糾合した。 | |
大阪市民の 驚愕 |
大阪の市民は元和落城の後、二百余年にして始めて砲声の天に轟き、剣戟の地に閃く光景を見た。城代土井大炊頭、町奉行跡部良弼は共に兵を発して之を拒いだが、彼等は久しき世の太平に慣れて、徒に他の援助を待つのみ、逡巡して進むことを知らなかつた。中にも東西の町奉行が砲声に驚いて落馬したなどは見苦しとも何とも言語道断の沙汰であつた。 | |
東西町奉行 の落馬 |
良弼の部下に堀部某なるものがあつて纔に衆を励まし進んで一揆を駈け散らす事を得た。平八郎は乱後其子格之助と大阪油掛町美吉屋五郎兵衛方に潜伏中、捕吏の包囲にあつて自殺し、畿内諸国の大名を驚かして出兵の用意までさせた天保の騒動も茲に其終局を告げたのである。 | |
天下これよ り多事 |
騒動の起つたのが天保八年二月十九日、平八郎父子の自殺したのが三月廿七日、天下はこれより何となく物騒であった。
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