Я[大塩の乱 資料館]Я
2000.1.18

玄関へ

大塩の乱関係論文集目次


「大塩中斎の道徳観」

高須芳次郎(1880-1948)

『近世日本儒教史』越後屋書房 1943 所収

         

第二部 思想篇
第四章 道徳観の諸傾向       

三 大塩中斎の道徳観

 陽明学派のうちで、藤樹のほかに、道徳、倫理観を紹介すべき価値ある学者は大塩中斎である。彼は博識の人でなく考証に長じた人でもなかつた。けれども主として独学によつて、陽明学に帰し、その深き体験を土台として、一家の道義学を打建て得たところに尊重すべき点がある。彼は阿波の人で、俗称を平八郎といひ、寛政五年に生れた。長じて大阪天満町の与力大塩氏の養子となり、やがて与力の職を継いだが、吏務を処理するには学問の必要あるを感じ、一時江戸に出て林述斎の教を受けた。その期間は明白でない。そして彼は二十六才の時、父を亡ふと共にまた与力の職に就き其治績の見るべきものが頗る多かつたのは一般の知るところである。かの切支丹事件に於ける裁判や、大阪の奸吏を糾弾した時の峻厳な態度などは、中斎が司法官としてのよき資質を示した。後、彼は天保の大飢饉に際して窮民に同情し、東町奉行跡部山城守が民衆に冷淡なのを激怒して、乱を起し悲壮な最期を遂げた。時に四十四才である。

 藤樹に上帝説があるやうに中斎に太虚説がある。「太虚」の二字は張横渠の哲学のうちに見えてゐて、その意味は、形なく、感覚なく、永久的無限的なものであるとした。即ち太虚とは宇宙の本体である根本生命である。それで張横渠は「虚は天地の祖、天地は虚のうちより来る』といひ、また「天地万物皆虚を本とす」とも云つた。中斎の太虚説は茲に暗示を得て、藤樹が「人は小体の天にして天は大体の人だ」と云つた意味を現はそうとしたのである。それと共に中斎は太虚説を前提として一種の霊魂不滅説を打建てゝゐるが、この点は藤樹と異るところで、唯心観上、人間の永生を肯定した。彼はその意味に言及して「聖賢は則ち独り天地を視て無窮となすのみならず、吾れを視て亦以て天地となす。故に身の死するを恨まずして心の死するを恨む。心、死せざれば則ち天地と無窮を争ふ」と云ひ、先験的に人心に具有する天理を発揮すれば、心的永生を得るとした。彼は「人、神を存して以て性を尽くせば、則ち散じて死すと雖も、その方寸の虚は太虚と混一して同流朽ちず滅びず」と云ひ、人間本具の良知をよく発揮して、天人合一の域に入るならば、人は必ず心的永生を得るといふ意味を説いたのである。

 以上は中斎の倫理、道徳観に於ける基調を為すものである。彼は太虚から受けて太虚と同じ霊能ある良知を体現することが、やがで倫理、道徳の大本だと考へたが、さうした目的を達すには、どうしても虚偽を去らねばならぬ。そして徹頭徹尾、誠実であらねばならぬとし「良知を致すの学、但々人を欺かざるのみならず、先づ自ら欺くことなきなり。……戒愼と恐懼と須叟も遺るぺからざるなり」と云つた。即ち誠実を以てこの生を一貫するのが、良知を致す所以で「これを身に本づけ、これを庶民に徴し、これを三王に考へて謬らず。これを天地に建てゝ悖らず。これを鬼神に質して疑なく、百世以て聖人を俟ちて惑はず」といふべき至誠の生涯こそ、人間に取つて一番大切で、これに良知の光明が燦然として輝くぺきことを確信したのである。

 中斎はさうした信念の上に起つて、学問の意義を解釈し、藤樹、仁斎と同じく、学問とは科学でなく、芸術でなく、政治経済でなく、道徳の本質を究明するものだとした。さう云ふ傾向はひとり、藤樹、仁斎、中斎ばかりでなく、近世儒学に於ける共通点で、ひとり徂徠一派や経済財政に関係ある学者だけが、さういふ傾向を離れてゐたのである。そこに長短あり利弊があるが「政は正なり」の意や「道徳即経済、経済即道徳」といふ旨を発揮する上に於て、道義を究明する学問は相応に必要である。仁斎、藤樹、中斎らも、それを認め、道徳学を以て、諸学の魂たるべきものと考ヘ、先づこの点にその力を傾けたものと思ふ。

 それで中斎は「学問多端なりと雖も、要するに心の一宇に帰するのみ。一心正しければ則ち性と命と皆了すべし」といひ、更に学問に志すものは慾を去り、大虚(宇宙の本体)の理を知り、藤樹の所謂「孝」を以て終始すべきことを教ヘた。藤樹の「孝」は普通云ふところの孝ではない。その孝とはどういふものか、藤樹も中斎も明確に説いてゐないが、仁愛の至極せるものと解して差支なからうと考へる。中斎はかうして道義学の要を説くことに心力を注ぎ、英雄、豪傑の偉業もそれが道義に背く場合は一毫の価すらなきことを切言して「欲路上の大英雄は志を一時に得と雖も、而も醜を千歳に流し、父母の名を毀ち禽獣の為に踰ゆ」といひ、自己の功名のために多数の人々を犠牲にするところの英雄を罵つて「それ古今の英雄豪傑は多く情欲上より做し来る。情欲上より做し来れば、則ち驚天動地の大功業と雖も、要するに夢中の伎倆のみ」と喝破した。そこに中斎の峻厳な道義的精神を表明してゐる。

 それから中斎は道義の一要素として特別に師弟の関係を重く見て、道義の立つと立たぬとは、一にこの関係を正すと正さゞるとにあると迄考へた「三尺去つて師の影を踏まず」といふことは儒学の精神をよく現はしたものであるが、それは仏教に於ても亦同じで、日蓮聖人は「給仕第一」と云つて、弟子が心から師によく仕へるのを入道の大事とした。中斎は、矢張「給仕第一」の心を重んじて「聖賢の道を学んで以て人たらんと欲せば、則ち師弟の名を正さゞるべからざるなり。師弟の名正しからざれば則ち不善醜行ありと雖も、誰れか之を禁ぜん。故に師弟の名誠に正しければ則ち道、その間に行はる」と云つた。


・大塩平八郎の出生は、大坂・阿波両説あります。
・江戸遊学についても裏付けの史料はありません。


大塩の乱関係論文集目次

玄関へ