天尊道人
『陽明学 第7号』 陽明学会 1909.5 所収
徳川の末、天下を震動せしめた、大阪乱の奇傑、大塩平八郎が終に衆寡敵せず、其乱に一族とともに亡びた、今日或る論者は大塩は其の乱に死なずして、支那に遁れたと云ふが、之は所謂斎東野人の語、好事家の言で、信ずるに足らないのは勿論である。
大塩は彼の乱に死んだのであるが、平八郎の妾腹に出来た子が、現に生存して居るといふことは事実である。
それは今、岐阜県、武儀郡吉田村、英正寺(日蓮宗)といふ寺に、浮世の塵を避け、墨染の衣を纒ひ、菩提の林に、真如の月を観じて居る、天山和尚(俗名は弓太郎)といふのが、即ち之れである。
たしか今年は七十九歳になると想ふ、此の坊さんが、一昨年七十七歳の時に余の知人である武儀郡関町の、西村芳海といふ人から、天山上人喜寿の祝ひに何か書いてくれと云つて寄越したことがある、
余は芳海氏を介して、上人が、大阪の乱を遁れて、以来今日に至る迄の経歴を聞かうとして、今、照会中であれば、分つたら、本誌に掲載しよう、
聞けば此人は大阪乱の時には幼なかつたので、乳母が抱いて逃げ、辛くも幕府の恐ろしい死の手を脱したのださうな、
上人は、胸裡、洒々落々、浮世の外に、悠々として居る趣がある、弘法の傍ら、文墨をたのしみ、歌も詩をも善くし、文人画の山水などに妙を得て居り、猶篆刻に巧みで、専門家を後に瞠若たらしむるさうな、
又法華妙典に精通するのみならず、外典にも深く通じ。先人の衣鉢をついで陽明学にも通ずと云ふ、現今武儀郡で、頭角をあらはして居る者は、概ね上人の弟子であつて、上人の弟子の数は三千人に及ぶといふことである、
その七十七の詩にかう云ふのがある。
未成名走利奔人。自似蓮花不染塵。
顕晦観来都是夢。空迎七十七年春。
と、以て其の胸中を窺知することが出来る、また多くの騒人が、詩歌を寄せて上人の喜寿を祝ひたるを悦び前韻を畳して曰く、
笑吾喜字寿年人。疎懶硯池生点塵。
百氏神交寄書画。恵然到手自成春。
と、上人の風■が偲ばれるではないか。