世はやがて天保年間に入つた。これまで久しい間事もなく治つた天下
も、天保四年頃から五六年にかけて東北地方に不作が続き、物価が根年々
高くなるばかりである。と思つてゐると七年に入つて、三月から七月ま
アンクハ
で雨が降りつゞき、夏の土用中に綿入を出したり、安火を持ち出すさわぎ、
もちろん天下は大饑饉である。米の価も平常の十倍になり、将軍の御膝元
江戸の町にすら餓死したかばねがごろ/\ころがる有様、ましてや諸国の
難儀はいふまでもない。天明頃はやつた打壊は方々にあつて、夜もおち/\
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は眠られず、餓と心配とに天下ことごとくやせほそつてしまつた。
この頃大阪に大塩平八郎中斎といふ人があつた。もと大阪の与力(今の
警察官)で、学深く、徳高く、武術もすぐれ事務にもなれたあつぱれな人
であつた。この頃は職をその子にゆづり、自分は弟子を集めて教育してゐ
たが、この大饑饉にあつて世人が苦しむのを見るにしのびず、大阪町奉行
跡部山城守に書を奉り、又鴻池や三井などの富豪を説いて金を出させよう
とした。富豪等は、何れも大塩の言葉をもつともとしてさんせいしたが、
奉行跡部はおろかにも大塩の評判が高いのをねたましく思ひ、平八郎は気
狂かと、願書をつきかへしてしまつて受けつけない。平八郎は大いに怒り、
こゝに一大決心の後、まづ多年集めた書物を全部売りはらひ、その金をか
はいさうな人たちに分け与へ、次に近国に檄文を飛ばし、王室の御衰微を
なげき、武家のわがまゝをいかり、官吏のよこしま、富豪の奢侈などを数
へ立て、吾これより立ちてこれを誅伐し、金品はことごとく人々に分配せ
ん……と。そしていよ/\乱を起すことにした。
天保八年二月十九日、この日跡部山城守が市中を見はるので、これを途
中でうちとつて事をはじめようと、すつかり手はずを定めてゐた。すると
部下の者に変心する者があつてひそかに訴へ出たので、大阪城代はじめ驚
いて兵を出した。大塩もさらばと、同志や門人五百余人と、北区天満の家
を出て難波橋を渡り、船場に入つて家々に火をかけ、富豪の倉庫を破りつゝ
進むうち、淡路町で奉行の兵と衝突した。はじめは大塩の軍が勝ちさうで
あつたが、何しろ寄せ集めの兵なので長く続かず、遂に破られ、平八郎は
一時その場をのがれて後自殺し、乱はたちまち平定した。
乱はかうして大した事にもならずしてすんだが、何しろ久しい間太平が
続いた後だつたので、世の中は大そうさわぎまはり、幕府はこゝに明らさ
まに衰亡の形を示して来た。
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