Я[大塩の乱 資料館]Я
2015.12.1

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「大塩の乱関係論文集」目次


「大塩平八郎の乱」

友納養徳

『少国民の日本史 下』モナス 1926 所収

◇禁転載◇

第十三 徳川家斉
 四 大塩平八郎の乱

管理人註
  

 世はやがて天保年間に入つた。これまで久しい間事もなく治つた天下 も、天保四年頃から五六年にかけて東北地方に不作が続き、物価が根年々 高くなるばかりである。と思つてゐると七年に入つて、三月から七月ま                        アンクハ で雨が降りつゞき、夏の土用中に綿入を出したり、安火を持ち出すさわぎ、 もちろん天下は大饑饉である。米の価も平常の十倍になり、将軍の御膝元 江戸の町にすら餓死したかばねがごろ/\ころがる有様、ましてや諸国の 難儀はいふまでもない。天明頃はやつた打壊は方々にあつて、夜もおち/\       ウエ は眠られず、餓と心配とに天下ことごとくやせほそつてしまつた。  この頃大阪に大塩平八郎中斎といふ人があつた。もと大阪の与力(今の 警察官)で、学深く、徳高く、武術もすぐれ事務にもなれたあつぱれな人 であつた。この頃は職をその子にゆづり、自分は弟子を集めて教育してゐ たが、この大饑饉にあつて世人が苦しむのを見るにしのびず、大阪町奉行 跡部山城守に書を奉り、又鴻池や三井などの富豪を説いて金を出させよう とした。富豪等は、何れも大塩の言葉をもつともとしてさんせいしたが、 奉行跡部はおろかにも大塩の評判が高いのをねたましく思ひ、平八郎は気 狂かと、願書をつきかへしてしまつて受けつけない。平八郎は大いに怒り、 こゝに一大決心の後、まづ多年集めた書物を全部売りはらひ、その金をか はいさうな人たちに分け与へ、次に近国に檄文を飛ばし、王室の御衰微を なげき、武家のわがまゝをいかり、官吏のよこしま、富豪の奢侈などを数 へ立て、吾これより立ちてこれを誅伐し、金品はことごとく人々に分配せ ん……と。そしていよ/\乱を起すことにした。  天保八年二月十九日、この日跡部山城守が市中を見はるので、これを途 中でうちとつて事をはじめようと、すつかり手はずを定めてゐた。すると 部下の者に変心する者があつてひそかに訴へ出たので、大阪城代はじめ驚 いて兵を出した。大塩もさらばと、同志や門人五百余人と、北区天満の家 を出て難波橋を渡り、船場に入つて家々に火をかけ、富豪の倉庫を破りつゝ 進むうち、淡路町で奉行の兵と衝突した。はじめは大塩の軍が勝ちさうで あつたが、何しろ寄せ集めの兵なので長く続かず、遂に破られ、平八郎は 一時その場をのがれて後自殺し、乱はたちまち平定した。  乱はかうして大した事にもならずしてすんだが、何しろ久しい間太平が 続いた後だつたので、世の中は大そうさわぎまはり、幕府はこゝに明らさ まに衰亡の形を示して来た。

   
 


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