Я[大塩の乱 資料館]Я
1999.10.14
2000.4.18訂正

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「洗心洞通信 1」

大塩研究 創刊号』1976.3 より

◇禁転載◇

 

◇大塩事件研究会発足

 一九七五年十一月九日に、大塩中斎先生顕彰会大塩事件研究会の創立総会が、大阪なにわ会館で開かれた。二年ほど前から、大塩事件についての総合的な研究会をつくる声がひろがり始めていたが、昨年三月の顕彰会恒例行事を経ていっそう具体化し、この日に至ったもので、当日は関係者子孫や研究者・市民など三十数名が出席した。

 総会の席では、会則を採択し、出席者の自己紹介をおこない、史実にもとづいた研究をすすめるという活動方針をきめた。

 最も論議を集めたのは、会の名称であった。世語人からの提案は「大塩の乱研究会」であったが、「乱」という表現が権力側からの評価を含むことで難色が出され、さりとて「大塩平八郎研究会」では、平八郎個人に研究が狭められて、当時の時代やかれをとりまく多くの民衆像を明らかにする上で少しく不適当などの考えもあって、「大塩事件研究会」となった。「大塩義挙」という表現も、事件の一定の評価を最初から含んでいるということで、さし控えた。

◇藤山せきさんを囲んで

 研究会結成のニュースが読売新聞をはじめ主要新聞の大阪版で報じられるや、各方面から問合せや情報の提供をいただいた。その成果の一つとして、昨年十二月七日に、鹿児島県熊毛郡上屋久町永田からたまたま上阪中であった藤山せきさん(明冶二六年三月二六日生、八四歳)を囲んで、東大阪市の西尾治郎平氏宅で屋久島での様子をうかがった。

 せきさんは、摂津国東成郡般若寺村(いまの大阪市旭区清水町)の橋本忠兵衛の子、松次郎が屋久島に流刑されてからの関係者である。松次郎の直系は計屋(はかりや)家で、いまに現存している。松次郎の子が計屋周之助で、周之助には、長男秀一・次男嘉太郎(藤山家へ養子に入る)・三男藤一とスエ・タセ・ヨシの三女という六子があり、藤山せきさんは嘉太郎氏の妻にあたる。せきさんは松次郎じいさんに直接会った最後の現存者であろう。

 当日は、せきさんの息光志(みつし)氏がつきそい、事件関係者の栗田千代夫妻・田中保雄氏も参加した。

◇屋久島調査

 ことしに入って、計屋晃成氏(橋本忠兵衛の玄孫、八尾市福万寺町南〉のお世話で、白井孝昌・政野敦子両氏が一月十五日から十九日にかけて鹿児島県の屋久島に赴き、大塩関係の調査をおこなった。詳細は本号におさめた政野氏の調査記を参考されたい。松次郎関係のほか、摂津国東成郡猪飼野村の木村司歌之助も同じ屋久島の上屋久町永田に流されたことが明らかになった。流刑地までの調査は大塩事件では初めてのことと思われるが、今後屋久島・種子島・隠岐島など調査すべきところは多い。なお、交通不便のなかを、大阪からはるばる郷里屋久島まで同道して案内にあたられた計屋晃成氏と現地で御教示いただいた計屋秀美氏ら昼久島の皆様に御礼申し上げる次第である。

◇大山由六のこと

 創立総会の席で、栗田千代氏(大阪市住吉区帝塚山西)から、先祖が事件に関連して処刑されたとも、津軽に落ちのびたとも伝え、青森県下北郡川内町に本家の大山元二郎氏がいることが報告された。関係者は大山由六といい、天満の廻船問屋の支配人をつとめた人物で、後にこの問屋藤野四郎兵衛が由六追悼の碑を、竹林寺(大阪市西区本田二丁目一六)の山門右側に建てた。畳一枚ぐらいの大きさの自然石であった。大山・粟田家では、天保八年二月二十日を命日とし、行年三四歳と伝えている。この碑は、竹林寺一帯をみまっだ大空襲によって破壊されたらしく、現在のところ同寺には見当らない。

◇種子島からの便り

 鹿児鳥県西之表市西之表、つまり鉄砲で有名な種子島から、徳永逞氏の便りが届いた。同氏は、大塩門弟で門真にいた高橋九右衛門の関係者で、西之表安城立山に武田姓で直系の子孫がおられる由。
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