Я[大塩の乱 資料館]Я
2000.12.18訂正
1999.10.21

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「洗心洞通信 2」

大塩研究 第2号』1976.10 より

◇禁転載◇

 

◇一四○年忌法要と第二回総会

 恒例の三月二七日の午後、大塩平八郎一四〇年忌慰霊法要が菩提寺である成正寺(大阪市北区末広町三五)において営まれた。法要には関係者遺族・研究会々員・一般参列者等約五〇人が参加し、平八郎ならびに関係物故者の追悼をおこなった。このあと、大阪教育大学助教授乾宏巳氏の「大塩門弟茨田郡士をめぐって」と題する講演があった。講演の内容は、同氏の『ヒストリア』第六九号論文を参照されたい。

 ひきつづき大塩事件研究会第二回総会が開催され、昨年十一月発会以来の会の活勤経過、昭和五〇年度会計中間報告(会計年度末が三月三一日であるため)、五一年度の事業計画ならびに予算案の審議をおこなった。事業計画については、年二回の会誌発行や会員参加の例会を定期的に開くことなどをとりきめた。また会費千円で年二回の機関誌発行は財政的に困難な点が多いが、寄付などの協力を得ることにした。当日会誌の創刊号が配付された。なお休憩時間に、松尾鷺恵氏とその門下二氏による平八郎の漢詩三篇が朗詠されて花を添えた。

◇第一回例会

 昭和五一年六月十九日午後二時から成正寺において研究会最初の例会を開いた。「救民檄文を学ぶ会」で、檄文のコピー(九十周年記念に配られたコロタイプ版からの複写)を使って、白井孝昌氏の指導のもとに学習した。また大阪市立博物館の相蘇一弘氏からも十月〜十一月に予定されている大塩展について史料の収集状況を報告していただいた。

◇徳島脇町だより

 天保乱後百四十年、大塩平八郎の人物研究が、期せずして全国的に関心を喚んでいるようである。

 平八郎の「ふるさと」を自称する徳島県脇町にも、昨夏「大塩平八郎顕彰会」が発足し、時宜役員会と研究会を開催して顕彰の方途を模索し、研究成果を発表して来ているが、本年七月初め第一回の総会を待って、会活動の実際的展望を決めた。

 それは、@会員層の一層の拡大、大阪大塩顕彰会との接触の深化、A生誕地点の確定作業、B顕彰碑の建立方策検討を主目標とし、また、C今秋の大阪城内市立博物館における大塩史料展への協力と、観覧団の編成を決定した事である(東大阪市政野敦子氏、討議参加)。Bについては、既に建設小委員会を作って細目の具体案を討究中てある。

 とにかく、平八郎阿波出生説の当否は措いて、真実の解明が会活動の日標であり、この解明の過程で、平八郎の人物像が一層鮮明化されるなら、そしてまた、既にそり家系上重大な影響を与えて来た阿波との関係が追及される事は、真実「顕彰」の途につながるものとの認識に達している。

 昨年六月から「徳島新聞」紙上連載されていた岩佐冨勝氏の「天保の青雲 − 阿波人大塩平八郎」も三月十三日、三十回目で完結した。

 県内でも大塩事件と平八郎への関心がかなり盛上りを見せているようだ。

 七月二十二、三日の両日、大阪市立博物館の相蘇一弘氏は、厚木市白井孝昌氏と同道、今秋開催の大塩平八郎展の資料蒐集に脇町に来訪され、阿波説につながる資料を探索せられ数点を採集せられた。このように阿波現地の風土と証蹟に接せられ、細緻な探究を試みられる人達が次第に増えている事は、平八郎の人物研究が漸く全国的共通の墓盤に立つに至った事を示しており、天保事件後一世紀半近く、大塩問題も広範な視角を得て、その実態解明への曙光が射して来た感が深い。

 なお、脇町各寺で最近無縁墓地の整理が進んでいるが、

@八月初句、脇町最明寺で塩田鶴亀助(かきすけ)の実母の墓が発見され(同寺過去帳上、佐藤五治兵衛妻とあり)、阿波説の基本資料となっている山口善郎の「演説覚書」 (明和二年)の真憑性が愈々増大して来た。

A八月中句、脇町東林寺で、後素槍術の初師とされる山口伝右衛門夫妻の墓が発見され、その没年が確定した (文政九年八月)。

B八月中句、脇町真楽寺の塩田鶴亀助・大塩左兵衛両夫妻の墓(宝篋印塔)の南側にある大破損している墓は、鶴亀助の祖父に当る塩田喜左衛門(初代)のものである事が、同じころ発見された山口家過去帳と、真楽寺月牌帳との照合から確定している。  (岩佐冨勝氏寄)

◇徳島の顕彰会々長の訃報

 発会後着々と成果をあげてきた「中斎大塩平八郎先生顕彰会」の会長藤野重雄氏(美馬郡脇町教育委員長・医師)が、八月二七日午後三時交通事故のため急逝された。享年七四歳。会も軌道にのり一層の躍進が期待されるときで、まことに心淋しいものがある。謹んで哀悼の意を表する次第である。

◇横須賀だより

 大塩平八郎が明治前期の自由民権運動のなかで注目されたことはよくしられており、秩父事件などでも運動家が平八郎に学んで民衆によぴかけようとしている。ここでは、明治二一年五月から発刊された「横須賀新報」にのせられた大塩関係の記事について紹介しよう。同新報は、神奈川県三浦郡横須賀旭町一六番地に事務所をおき、同県士族大塚静寄を発刊人とし(第二一号からは印刷人を兼ねる)、編輯人は京都府平民の井上三郎、第二一号から牛田丈太郎、第二五号からは岩村茂樹である。もと『言泉雑誌』を改題したもので、第六号が実質上の創刊号になる。

 加藤勇氏の解説によると、後藤象二郎の大同団結派につながる目由党系の雑誌である。

 同誌で、島本鳥歌氏が「民権講釈」という題で、大塩平八郎を小説風に六回にわけて発表している。第二一号(明治22年4月5日発行)から第二六号(同年5月25日)まで毎号(発行日は5・15・25の各日)にわたっている。内容は、跡部山城守と救民を唱える平八郎の対立、一万両の借用を鴻池家に依頼する場面、瀬田済之助を感動させて与党に加えるところ、伊丹の額田七郎右衛門が蜂起の吉凶をうらなって平八郎と談ずる場面とか、あまり文学的にも思想的にも秀れた創作とはいえない。この文章の反応として、読者から檄文の文章が届けられ、それを漫録して第二四号(明冶22年5月5日発行)に紹介している。

 島本は、同誌の中心的な寄稿家の一人で、他にも数多くの文章を発表しているが。この点でもさほど卓抜した政治論を展開しているわけでもない。福島事件・埼玉(秩父)事件などの民権運動の激化事件についても「是等の出来事は左程に意味ある事とも覚へず」(第一五号・明治22年1月5日発行)とのべている。ただこの文章につづいて「何処彼此(ここかしこ)も建白流行にて続々総代入京……延(ひい)て年末の退去となり、未曾有の果断に東京を逐ひ出され、多少人民に感動を与へしが、是も終に泣睡入となりたり」とのべていることが注目される。明治二一年十二月に発布された保安条例による帝都追放のことである。

 ここで思い出されるのは、島本仲道である。かれは明治二〇年八月に大塩を主題にした『青天霹靂史』(本の表紙には『青天霹靂』とある)を発刊し、高知県平民であり、同書には岸俊子(湘煙)が序文をのせている。仲道は、『目由党史』などで明らかなように、大同団結派の中心人物で、保安条例によって三年間皇居を隔たること三里の外に追放されている。この仲道と鳥歌が同一人物ではないだろうか。横須賀での動きをさらに知りたいところである。
 (岸本隆巳氏寄)

◇「幕末群像」第一巻発行

 本会々員の秦達之氏(愛知県立中村高校教諭)が本年三月に『幕末群像』第一巻を自費出版された。三河加茂一揆に始まり、大塩挙兵計画にいたる一二章で、史料をふまえ足であるき、新たな歴史像をかき上げようと試みたものである。希望者は同氏あて連絡されたい。

◇小野市堀井家調査

 四月二〇日に酒井一・岸本隆巳(横須賀市立長井中学校教諭)の両氏は、兵庫県小野市河合西村出身の堀井儀三郎の調査をおこなった。青野ケ原の丘陵、西村を眼下にみおろすように「堀井儀三郎招魂碑」がたっていることはよく知られているが、今回改めて位牌と墓石を調査した。後日、本誌に詳細を報告する予定。

◇「愛国新聞」の大塩記事

 大正期に農民運勤のはげしく展開したとき、日本農民組合三重県支部から出されていた機関誌『愛国新聞』に、堺枯川(利彦)が「講談大塩騷動」を十一回にわたって連載している。すなわち、同紙大正十三年四月十一号にのったのをはじめ、四月二一日、五月一・十一・二一、六月一・十一・二一、七月一・十一・二一日の各号である。 (西尾治郎平氏寄)


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