◇禁転載◇
◇大塩中斎忌法要・記念講演と総会
二〇一二年三月二四日午後一時半から成正寺において、同寺主催の「大塩父子及び関係殉難者怨親平等慰霊法要」が有光友信住職・友昭副住職によって営まれ、本堂前の墓碑に展墓した。
その後、本会主催の記念講演が行われ、深谷克己氏(早稲田大学名誉教授)が「摂河泉播村々の歴史・政治意識−「大塩書付」の読み方−」と題して講演した。同氏は、「大塩の乱」(これは高校教科書の呼称とのこと)は有志一挙であり百姓一揆とは違う。また、大塩が摂河泉播村々民衆に求めたのは、義挙参加ではなく実力行使であると説明された。「書付」や行進旗の神儒仏超越シンボルを統べているのは「天」であり、摂河泉播村々の住民の間でも「天」に、他の超越シンボルを超える信頼感があつたとの指摘があった。なお、講演要旨は後日、本誌に掲載される予定である。
小憩の後、内田正雄事務局長の司会で総会が開かれた。薮田貫会長の開会挨拶に続いて、二〇一一年度会務報告(会誌第六五、六六号の「洗心洞通信」参照)を松浦木遊委員、会計報告(本号掲載)を内田事務局長、会計監査報告を政埜隆雄会計監査委員からなされた。続いて一二年度の行事計画が内田事務局長から行われた。元副会長で顧問の向江強氏から退任される旨連絡があったことが報告され、新任の委員として福敬二氏の就任、等すべての案件が原案通り承認された。閉会の辞を久保在久副会長が述べた。(内田)
当日の参加者は、(中略)計四三名
◇六月例会
六月三十日午後一時半から成正寺で、森田康夫先生(本会会員、樟蔭東女子短大名誉教授)が、「洗心洞詩文からみた大塩平八郎」と題して講演した。久保在久副会長の講師紹介に続き、森田氏は、これまでの大塩の問題点を具体的に指摘し、思想分析に欠ける主観的な評価に偏っていることを個別に明らかにした。その上で、大塩の詩文を中国明末の性霊派袁中郎の影響を受けた「率直に自らの思いをことに触れて語ったリアリズムの文学」として、「良知を明らかにするなど、詩文と学問の関係を重視」する作風として特徴づけ、それぞれの詩文の意味について詳細な解説を試みた。(久保)
当日の参加者は、(中略)、計三〇名
◇「浪華動乱−大塩の乱から一七五年−」
一二年三月二七日〜九月二三日まで門真市立歴史資料館では標記の特別展を開催している。今回の特別展では、資料館が収蔵している茨田郡士の資料を中心に、成正寺所蔵の「洗心洞箚記」「施行引札」をはじめ、大阪商業大学商業史博物館所蔵の「大塩焼図」、大阪府立中之島図書館所蔵で、大塩の乱を絵入りで詳細に描いた「大塩実録」「幕末維新絵物語」を展示した。展示品については、本会会員の松浦木遊氏・志村清氏のご協力を得た。(常松)
◇講演会「大塩をとりまく人々」
右記の特別展に関連して、一二年四月一五日(日)午後一時半から徳島県立博物館学芸員で本会役員の松永友和氏が「大塩平八郎と坂本鉉之助」と題した講演を、六月一七日(日)午後一時半からは関西大学教授で本会会長の薮田貫氏が「大塩平八郎と内山彦次郎−与力の人生−」と題した講演を、門真市立歴史資料館でおこなった。また、五月二〇日(日)には「歴史ウォーク 門真で大塩を歩く」と題して、門真市内に残る茨田郡士ゆかりの地を常松が案内した。いずれも定員を超えて、盛況であった。(常松)
◇NHK−BSプレミアム「歴史館」
七月一二日
午後八時、「怒り爆発!もう許さん!!大塩の乱、大坂から江戸を撃つ」が放映された(再放送もあり)。番組に登場した人々と共に放送の概要を本会会員の松浦木遊氏(無量図書館長)に記録していただきました。
コメンテイターは黒鉄ヒロシ、童門冬二、そし
て宮本裕次(大阪城天守閣主任学芸員)の各氏でした。
@大塩家の菩提寺である成正寺では、当会の会長薮田貫先生と有光友昭副住職によって、門外不出の檄文が紹介され、大塩家が成正寺の檀家であったが故に檄文の正本が今に伝わつている由紹介。
A「四海困窮いたし侯ハバ天禄ながくたたん。小人に国家を治めしめば災害併至る」で始まる二千字にも及ぶ檄文は、事前の機密保持のため三十三分割された版木に、個別の彫り師たちによって板刻された史実に基づき、一七〇年ぶりに復刻した松浦木遊が説明を補足しました。
B大塩平八郎から幕閣に送られた密書(建議書)は幸か不幸か返送される途中、箱根越えの三島の街道で飛脚によって捨てられたのを、伊豆韮山の江川代官の事によって筆写されたのが昭和の末期になつて日の目を見たとのこと三島の橋本敬之氏が鋭明されました。
E一方、大塩平八郎親子が乱の直後、暫時隠れ潜んだという東大阪の政埜さん宅の居間といざという時裏から逃げる為の隠し戸が政埜隆雄氏から紹
介されました。大塩が凡そ四十日もの間、潜伏していたことについて薮田会長は「密書(建議書)に対する江戸幕府の反応、とくに人事刷新が行わ
れ、大阪に伝わるのを待っていたのではないか」と述べられました。
D大塩と共に戦い獄死した橋本忠兵衛の関係者で、屋久島に流配されたご子孫の遺品の長持ちと長押に飾られている檄文の額は、計屋松幸氏によって、もう一つの物語として紹介されました。
◇船場大阪を括る会
八月二五日第一六四回例会が
「さいかくホール」(大阪府庁新別館)で開かれ、本会会長の薮田貫氏が「「天下の台所」の侍たち〜大塩平八郎をめぐる人々〜」と題して講演した。
◇平八郎の書状が一五〇万円
テレビ東京(関西地方はテレビ大阪)の人気番組「なんでも鑑定団」に6月5日(火)登場、レギュラー出演者の増田孝愛知文教大学学長が平八郎の真筆と鑑定しました。所有者は東京都墨田区在住の太田イマヨさん。何代か前、現千葉県匝瑳市で名主をしていた先祖の太田惣右衛門さんにあてて平八郎が嶋村兵助親子に言付けを頼んだものだそうです。
嶋村兵助は林大学頭の用人で、大塩平八郎の周辺人物として極めて重要な人物だと増田先生ほ説明しました。太田さん方には嶋村兵助からの書状がたくさん残されているとのことで、増田先生は「ぜひ見たいですね」と、強い関心を示していました。書状の内容は以下の通りです。
太田惣右衛門様 大塩平八郎
昨日は初めてお出で下さりお会いしありがとうございました。さて今晩嶋村御老の旅館に参りますと申し上げましたが、違約で恐縮ですがお断りいたします。明日十四日の晩には間違いなく参上すると兵助殿へお伝え下さい。夕暮れ時、馬で参りますが、暗くて不自由ですので、そのこともご理解ください。明晩はどのようなことがありましても必ず参上、違約はいたしません。
八月十三日
増田先生の解説によると、平八郎と太田惣右衛門は昨日が初対面で、嶋村御老と兵助は親子で旅をしているのではないか。旅先で直接連絡取れないので、惣右衛門さんに連絡を取ってもらうよう言付けたのだろう、とのことでした。
余談ですが、この書状の最後の日付けの八月の八の字は、母の曽祖父、戸嶋屋政兵衛が沼津市上土で質屋をしていた当時、無尽帳に何度も書いていた八の字と完璧と言っていいほど瓜二つに見えました。あまりにも単純な字なので、これだけで戸嶋屋政兵衛が平八郎だと断定するつもりはありませんが、以前、酒井会長にお送りして無視された戸嶋屋政兵衛の他の筆跡も、この際真剣に平八郎のものと照合していただきたいと存じます。(小西克介=本会会員)
◇相蘇一弘氏の見解
右につき本会会員で『大塩平八郎書簡の研究』(清文堂、二〇〇三年)を出版されている同氏が、編集部久保の質問への返信で次のように述べられている。
大塩の手紙の相場は普通50〜60万円ほどで、私はこの番組を見ておりませんが、宛先・内容についても格別のものとも思えませんので、150万という評価は高すぎるという印象です。御承知の通り、島村兵助は大塩が(天保8年)2月17日付の書簡(建議書)を林述斎から老中に届けさせるために書簡の入った箱を送った林の家臣で、文政10年に林が千両を融通して貰うため大塩との折衝にあたらせた人物でもあります。
本書簡の宛先の太田惣右衛門と島村との関係が わかれば本書簡の背景が少し解れると思うのですが、小西さんからの情報だけではよくわかりません。また年紀は「八月十三日」という日付からは千両一件に絡む年なのか、それ以外の付き合いの年なのか特定できません。「島村御老と兵助は親子で旅をしているのではないか」と増田氏が推定されたとのことですが、原文にあたる必要がありますが「島村御老」と「兵助」は同一人物の可能性も考えられるでしょう。大塩が(おそらくは大坂に来ている)島村との面会に太田惣右衛門を介したのは、@林家との接触を知られないための措置か、A身分的な立場を考えてのことか、B直接連絡がとれない何か別の事情があつたか、でしょうが、おそらくは@ではないでしょうか。今後、惣右衛門が何年に何のために上方へ行ったかなど、太田家文書によって大塩と林家の解明が進むことを期待したいですね。
◇「危機を考え、希望を語る」大阪講座
大阪の弁護士や労働組合メンバーらの呼び掛けで、各分野の専門家を招き、橋下・維新の会問題を考える標記洋座がスタート。来年四月までの日程で、大阪市北区の大阪弁護士会館で行われる。五・六月の講座は、二三、二〇日に、歴史的な視点から本会会長の薮田貫氏が講演した。同氏は大塩事件と大塩平八郎の紹介を行ったあと、大塩が江戸幕府に宛てた「建議
書」を、「大塩は、当時の大坂における武士の金権政治を中央の問題として初めて指摘した」とし、大塩事件を大坂が政治的に成熟する瞬間として位置付ける必要性を強調。橋下徹・堺屋太一両氏の共著『体制維新』に出てくる近代以降の大坂論が、「経済的に上がるか下がるかだけで論じられ、大阪が政治的文化的にどう成熟するかについてはまったく視野にない」と批判。大阪府立中之島図書館の廃館を打ち出した府市統合本部について、本図書館が開館した意義と、図書館を拠点にオール大阪の力で、懐徳堂を復興させるなど大阪文化事業のセンターであったことを紹介し、反対の立場を明確に打ち出した。(久保)
◇御所市の中井家文書
江戸時代の町家で庄屋だった国登録文化財の中井家(同市御所)。当主の中井陽一さん(73)が、九年間学んだ関西大大学院を修了して文学博士に。蔵で見つけた一八三七年のお触れを記した「公用帳」をめくると、大坂で反乱を起こした大塩平八郎の手配書があった。以来、ほぼ毎日、「宗門改帳」や「高名寄帳」などを読みふけり、〇三年同大大学院に。博士論文は「近世後期大和国御所町に関する研究」。所有する古文書は〇六年同市指定文化財となつた。(『読売新聞』奈良版12・3・31)・なお、同氏は本会に入会された。(久保)
◇松尾家文書の出版準備
島根県雲南市三刀屋町の同家所蔵の「諸御用留帳」(1838=天保九年)は、本会の「資料を読む部会」でも一時テキストとして使用されたが、その後本会の福島孝夫・井上宏氏らの力添えで解読が進み、原本と併せて出版する予定とのこと。また、同家は明治初年「三刀屋大火」のあと建築された和風名建築で、昨年来解体され、同県湯の川温泉(出雲市斐川町)の旅館「草庵」として本年六月再生された旨、ご当主の松尾和重様から伺いました。(久保)
◇『大阪人』五月増刊号
廃刊が決まり最後の号となった同誌に「天保の古地図が語る、大塩平八郎の乱の謎」が掲載された。本渡章氏(古地図研究家)が「天保新改摂州大阪全図」の復刻版をもとに、大塩勢の辿った足取りを追ったもので、本誌第64号も参照されたとのこと。(久保)
◇『南紀熊野の諸相−古道・民俗・文化』
元本会会員で、紀南文化財研究会会長、田辺市史編纂委員長を務められ、文部科学大臣の地域功労賞も受賞された杉中浩一郎氏(89)が標記図書を清文堂出版(大阪)から本年五月に出版された(八五〇〇円+税)。
T熊野参詣道、U民俗の小景、V廃絶の山村、W海外との接触、X田辺の文化人、Y熊野来訪の歌人文人、の構成。大塩事件に関する人物のことも取り上げられているので転載する。(久保)
斎藤拙堂(略)(一七三頁)
湯川麑洞(略)(湯川麑洞「再遊玉井洞」、『紀伊南
牟婁那誌』一九二五年刊)(四〇四頁)
◇安達勝彦氏の著書
本会会員の同氏は二〇〇五年三月『小説大塩平八郎』を耕文杜から上梓され、同社には若干部数在庫がありますが、発行後七年経過したので「絶版扱い」となったためか、古書市場で数万円の高価格で売りに出されている旨、同氏から連絡いただきました。(久保)
◇向江強氏の近況
元副会長・顧問の同氏は、老人福祉施設に入所中。三月一一日に八三歳の誕生日を迎えられた。「高齢になり、執筆や外出などは困難」とのことですが、読書三昧、囲碁にも親しむ日々を過ごしておられます。お見舞や郵便による激励などは差し支えないとのこと。所在地は(略)。(久保)
◇会員の活動及び著書
長尾武氏が『水都大阪を襲つた津波(二〇一二年改訂版)−石碑は次の南海地震津波を警告している−』を、四月に発刊された。本書は二〇〇六年に初版を発刊され、改訂を重ねられてきたが、〇八年発刊の「安政南海地震津波の教訓」の内容も含むものとなっている。お問い合わせ先(略)
久保在久氏は、二〇一二年六月二四日、JR西日本労働組合が主催した「朝鮮戦争反対『吹田事件』六〇周年記念集会」(メルパルク大阪=新大阪)で参加者一〇五八人に配布された「一九五〇年代の反米軍基地闘争資料集」の巻頭論文「関西地方における反米闘争〜一九五〇年代を中心に」を執筆した。
◇鴻池邸移築三十年
大阪・今橋にあつた鴻池邸は取り壊しが決定していたが、三宅製粉(株)社長三宅一嘉氏(故人)が、一九八二年(昭和五七)同氏の居住地隣に自費で移築した。当時、本会の催しの会場として利用させていただき、その縁で同氏は本会に入会された。鴻池の帳簿類や算盤なども展示され、現在では和菓子喫茶として人気を博している。時には音楽コンサート会場としても活用されている。場所は奈良市鳥見町一丁目五番一号、近鉄奈良線富雄駅下車西へ線路沿いに約七〇〇b。電話番号0742・51・3008。館内掲示の説明文を左記に掲載する。(久保)
比ノ建造物ハ元、大阪北浜、今橋ニアツタモノ デ、永ク「大阪ノ顔」トシテ親シマレタモノデモアリマス。一部ハ大塩ノ乱ノ焼打、又度々ノ修復サレテ居ルトハ申セ、本体三百年ヲ経タ大切ナ鴻池両替店ノ「表屋店」ノ遺構デアリマス、比ノ地ニ移転ニハ思案入念、史蹟学者助言ヲ根原ニ復元サレテオリ、浪花豪商累代ノ鴻池善右衛門ヲ偲ブ貴重ナ建物デス。昭和五十七年五月佳日。
◇訂正
本誌第六六号掲載の小西克介氏作成の年表に以下の誤りがありましたので、お詫びして訂正させていただきます。P49下段、天保8(1837)年の大塩平八郎の年齢が「46歳」というのは間違いで、正しくは「45歳」でした。
◇会員の訃報
井形正寿氏 元副会長・顧問を歴任された同氏は一二年七月二三日午前七時二二分、入院先の朝日生野病院(大阪市生野区)で逝去されました。享年九二。一二年七月二四日通夜、二五日成正寺において家族葬として営まれ、本会の関係者の一部がそれぞれに参列した。一九八一年二月十一日
入会。賛助会員として数々の独創的な研究で、本会の発展に大きな寄与をされた。経歴等は本誌第六四号(一一年三月)「大塩と私」13を、ご研究内容等については、第六〇号 (〇九年三月)「還暦でめぐりあった大塩研究の人びと」をはじめ、いくつかの本誌掲載論文を参照されたい。参列者のうち希望者に著書『「特高」経験者として伝えたいこと』(二〇一一年、新日本出版社)、「大開町と松下幸之助」収録の『論叢松下幸之助』(PHP総合研究所、二〇〇四年)が配布された。
◇編集部からのお願い
本欄に掲載するための会員の皆様からの情報をお待ちしています。ご自身の著作(必ずしも大塩にこだわらなくても結構です)、行事出演などのほか。大塩に関わる見聞、ご友人の大塩に関わる著作など。ご遠慮なくお寄せ下さい。(久保)