Я[大塩の乱 資料館]Я
2014.12.8

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「洗心洞通信 57」

大塩研究 第69号』2013.9 より

◇禁転載◇


◇大塩中斎忌法要・記念講演と総会

 二〇一三年三月二三日午後一時半から成正寺において、同寺主催の「大塩父子及び関係殉難者怨親平等慰霊法要」が有光友信住職、友昭副住職によって営まれ、本堂前の墓碑に展墓した。
 その後、本会主催の記念講演会が行われ、青木美智男氏(専修大学史編集主幹、元教授)が、「平戸藩松浦静山と大塩平八郎」と題して講演した。
 同氏は酒井一元会長の業績に触れつつ、松浦静山の随筆『甲子夜話』を紹介、大塩の乱について静山がいかに大きな関心を持ち重視していたかを指摘した。大塩に関わるいくつかの記事と坂本鉉之助との対談などを紹介した後、まとめとして、「『甲子夜話』に託した情報収集の意図をはるかに超えた政治的事件である大塩の乱に遭遇した静山は、入手する情報に圧倒されつつも、その事の重大さに気づき、入手する情報に自己の意見をコメントしていく作業を丹念に繰り返し続けました。その意見はただ一大名のものではなく、「神君」=家康を崇拝する多くの大名たちの立場の表明ともいえましょう。そしてそこに示された意見から見えてくるのは、大坂という秀吉が建設した町とそこに生きる人々の持つ大塩へのシンパシーに対する恐怖感と、大塩海外逃亡説にみられる対外関係への危機感を読み取ることができます」と指摘された。
 小憩の後、本会総会が開かれ、薮田貫会長の挨拶に続き、常松隆嗣副会長から一二年度会務報告、内田正雄事務局長から会計報告、政埜隆雄会計監査委員から適法に処理されている旨報告がなされた。一三年度行事計画を内田事務局長が報告、本年は役員・委員の改選期に当たることから、新任に顧問長谷川伸三、委員辻不二雄、会計監査委員土井裕子の各氏が就任すること。及び退任者は顧問井形正寿(死亡)、会計監査委員奥野まさ子(体調不良)であることが報告され、それぞれの案件がいずれも承認された。これに伴い新執行体制は、会長薮田貫、副会長久保在久、常松隆嗣、事務局長内田正雄、委員井上宏、柴田婁男、島田耕、志村清、白井孝彦、辻不二雄、西山清雄、福敬二、松井勇、松浦木遊、松永友和、山崎弘義、会計監査委員政埜隆雄、土井裕子の布陣となつた。(久保)
 当日の出席者は、(中略)計三七名

◇徳島五月例会

 徳島県立博物館が「平成25年度企画展」として「天下の台所大坂と徳島−江戸時代の交流史」が一三年四月二七日から六月九日まで開かれた。記念講演会は本会会長の薮田貫氏が五月二六日「大塩平八郎をめぐる人々〜徳島と大阪の間」と題して行われた。本会はこれを会の例会と位置づけ全会員に周知した。当日の報告は、同館主任学芸員で本会会員でもある松永友和氏が本誌になされているので、参照されたい。なお、当日の出席者は、(中略) 計一六名。

◇七月例会

 一三年七月二七日午後一時半から成正 寺において、明尾圭造氏(大阪商業大学商業史博物館主任学芸員)が、「近世大坂の画家とその動向〜自娯の文化表現として〜」と題して講演した。
 近年、大英博物館を中心として近世大坂画壇への関心が強まりつつある。それは、固定観念に捕われない作品そのものを見る虚心坦懐によるものである。翻って我国では、いまだ狩野派や四条派の展覧会が繰り返され、知名度のなさから大阪画壇の企画は地元大阪でさえ、取上げられる機会が少ないのが現状である。
 しかし、職業画家である四条派や狩野派に比して、近世大坂の画壇は生業を持った上での余技としての側面があったことを忘れてはならない。例えば、酒造業の木村蒹葭堂、米穀商から津藩士となつた岡田米山人など近世大坂の文人画は美術史だけでは解明出来ない奥行きの深さを持っている。
 自立した町人による自娯の精神の発露が書画であるとするならば、近世大坂画壇の研究は多角的なアプローチが必要となろう。混沌詩社や懐徳堂の伝統を持ち、文化的ネットワークが構築されていた江戸期大坂を思うとき、残された書画の研究は本来大阪が有していた文化都市としての立ち位置を解明する有力な手掛かりとなるだろう。
 当日の出席者は、(中略)、計二五名。(なお、本報告要旨は明尾氏からご寄稿いただいた。常松)

◇歴史教育者協議会第65回全国大会

 一三年八月二〜四日に全国の会員を集めて関西大学千里山キャンパスで開かれた(実行委員長、本会会長薮田貫氏)。それに先立ち八月一日「大塩平八郎の乱と近代大阪の夜明けの地を訪ねる」フィールドワークが行われ、約六〇名が参加した。成正寺では「成正寺由緒」が配布され、墓碑と「大塩の乱に殉じた人びとの碑」を見学の後、本会の概要と墓碑・檄文の紹介が副会長の久保在久氏によりなされた。参加者には大阪歴史教育者協議会編『大阪の歴史−フィールドワーク・コースガイド』(B5版四九頁)が配布され、大塩関係では成正寺のほか、洗心洞跡碑、与力役宅門などが取り上げられた。
 二日は全体集会、三四日は分科会。三日午後四時半から「地域に学ぶ集い」が行われ、本会の会長薮田貫氏が「近世大坂の町と摂河泉」、会員の渡辺武氏(元大阪城天守閣館長)が「軍都大阪と大阪城」と題して講演した。

◇西の帝国ホテル神戸西村旅館のこと

 『歴史と神戸』(第五二巻第一号、通巻296、13年1月刊)に、宮本眞貴子氏が「近代神戸の名旅館・西村旅館について−創業期の軌跡−」を発表した。冒頭に「西村旅館は明治九年(一八七六)から昭和二〇年(一九四五)までの間、神戸の中突堤の基部に実在し、港から船で往来する当時の著名人が多数宿泊した有名旅館であった」とし、創業者の西村絹についても「長崎港・大浦のお慶、横浜港・富貴楼のお倉と並んで港の三女傑″といわれた。気風の良さが売り物の名物女将であつた」とされている。
 この創業者西村絹(一八二五〜一八八六)こそが大塩の乱と関係のあることを、本会会員の森田康夫氏の論考(前掲誌三二巻六号)によって明らかにされている。以下、引用する。

◇松本侑子『神と語って夢ならず』

 乱に参加した西村履三郎の子・西村常太郎が流された隠岐島で起 こった民衆運動が小説化された(二〇一三年一月、光文社、一八〇〇円+税)。著者は作家・翻訳家、日本ペンクラブ会員。主人公は加茂村の庄屋の長男井上甃介だが、医師となった常太郎も登場人物の一員として描かれる。文芸評論家清原康正氏の書評を転載する。なお、現地には記念碑が建てられている。

◇酒井前会長の遺品

 本誌に岸本隆巳氏が経過などを詳述されているので、参照されたい。なお、この中に大塩の乱の火災で焼けた痕跡を残していた槐の木が国道一号線拡幅の際切り取られたがその木片の一部、及び本会が制作した「救民旗」があり、今後大切に本会で保存してゆくことにしたい。(久保)

◇『古地図で歩く大阪歴史探訪ガイド』

 メイツ出版から二〇一三年七月十五日発行で、新たな歴史探訪ガイドブックが発売された。(ペンハウス著 定価:本体一六〇〇円)。大阪の街(堺市も含む)を古地図と現代地図を見比べながら、タイムスリップの「まち歩き」してみませんかという趣向。
 一コース二時間から四時間程の行程を二十五コース、古地図・現代地図・写真入りで判り易く紹介している。この中で、大塩事件にゆかりのある場所も「大塩平八郎終焉の地」「成正寺(大塩平八郎の墓)」「洗心洞跡」「川崎東照宮跡」などが取り入れられている。大阪が好きで、歴史が好きで、まち歩きが好きな人にお薦めの一冊です。(内田)

◇『枚方の歴史』の刊行

 本会副会長の常松隆嗣氏が、瀬川芳則・西田敏秀・馬部隆弘・東秀幸の各氏とともに、『枚方の歴史』(松藾社、二〇一三年五月一五日)を刊行した(三九二頁、二〇〇〇円+税)。旧石器時代から現代にいたる枚方地域の風景が、全一二章と一二のコラムによって描かれている。図や写真が多く挿入され、叙述も丁寧でわかりやすい。また、巻末には略年表や参考文献なども掲載されている。
 大塩平八郎については、「第7章 幕末の世情と枚方の人々」の「大塩の乱と深尾才次郎」で取り上げられている。大塩の乱当日の枚方の動向や、才次郎と母のぶとの遣り取りが生きいきと伝わってくる。
 本書は、枚方地域に住む人々に焦点を当て、これまで通説になつていた事柄に再検討を加えたものである。最新の研究成果をふまえた上で、新たな歴史像が提示された意欲的な著書である。(松永)

◇ピースおおさかのシンポジウム

 六月二九日大阪市立港区民ホールで大阪国際平和センター(ピースおおさか)の「ピースおおさかのリニューアルに府民・市民の声を!シンポジウム」が開催された。本年四月九日に「展示リニュアール構想」が公表されたことに対し、「一部に改善をはかる内容も示されていますが、重要な内容が抜けていたり、不十分な点が多くある」との観点から、府・市民の意見を反映させたいとの意図で開催されたもので、本会会員の渡辺武氏(元大阪城天守閣館長)が発題者の一人として、「博物館の経験者から」と題して発言された。参加者は議員やメディアも含め約二〇〇人。

◇NHKの番組

 本会委員の井上宏さんから次のような一報をいただきました。

◇BS・TBSのテレビ番組「ライバルたちの光芒−幕府反乱/大塩平八郎VS水野忠邦」

 この番組はライバル関係にあつた歴史上の人物について、それぞれにゲストが付いて弁明し、最後に「平成のライバル奉行」と称する俳優の高橋英樹が「本当の勝者」を決定するという趣向のTV番組であるが、七月一七日二二時からの放映分では、大塩平八郎と水野忠邦が取り上げられた。ゲストは大塩側が作家の長尾剛、水野側は同じく作家の井沢元彦。ストーリーテラーとして大塩を「先生」と呼び尊敬してやまなかったという西郷隆盛が随所に登場するなど、どちらかというと大塩寄りの編集、構成であつた。
 ライバル関係の切り口の一つとして、「大塩の陽明学VS水野の朱子学」という観点を取り上げ、大塩の陽明学は行動を重視し、平等に繋がるものがあるが、朱子学は秩序を重んじ、身分制度からは抜け出せなかったと論じていた。
 各ゲストの「最終アピール」は、大塩側の長尾が「大塩は幕府の体制を健全にしたかったが、乱は権威の失墜に繋がり逆の効果になってしまった。しかし日本近代化の基礎を作ったという点では大きな成果だった」と述べたのに対し、水野側の井沢は「水野は国防への強い危機感があり、人に嫌われることも辞さなかった。政治家は八方美人であってはならない。反対者を押し切る実行力は必要」というやや論点を欠いたものであったためか、「奉行」の高橋の軍配は大塩平八郎に上がった。(辻)

◇松井勇氏の自分史

 前号「大塩と私」(15)で紹介した本会会員の同氏著『20世紀の片隅で−労働運動40年』が3月30日に開かれた帯文庫舎の「みんなで会おう会」(大阪リバーサイドホテル)で配布された。ご自身の歩んで来た道のりが客観的に綴られ、戦後労働運動史の資料としても貴重なものとなっている。希望の方には無料で進呈されるとのことですので左記へ申し込まれたい。(略)

◇松尾家文書

 すでに前号、前々号の本欄で紹介しましたが、このほど「出雲国飯石郡三刀屋町松尾家文書、天保九戊正月吉日、諸御用留帳、与頭清三郎」として自費出版された(B5版、一八〇頁、奈良市(株)昭文社)。上段に原本の写真を載せ、下段に翻刻文を記載している。翻刻にあたった本会会員の福島孝夫氏が「あとがきに代えて」を執筆、発刊に至る経過を明らかにしている。また近日中に現代語訳も出版したいとのご意向。(久保)

◇「鴎外の門」

 『大塩平八郎・堺事件』などを著した森鴎外は、一九一七年一二月帝室博物館総長(現在の東京・京都・奈良博物館を総括)に任命され、亡くなるまでその職にあった。奈良の宿舎跡に門だけが残っており標記の石碑が建てられている。
  猿の来し官舎の裏の大杉は
  折れて迹なし常なき世なり

◇『古文書に見る北河内の民衆史』

 旧聞に属するが標記図書(日本機関紙協会大阪府本部)が、澤田慎雄氏(故人、元寝屋川市職労現業支部委員長、衛都連現評事務局長)によって、一九八六年一一月一日に発刊されている。元本会副会長の向江強氏らの協力で、「大塩平八郎の決起−事件と北河内の農民(その1・2)」及び守口の白井邸についても記載されている。「推薦の言葉」には元本会委員の中瀬寿一氏(大阪産業大教授・故人)も登場する。今まで本欄に紹介されていないので紹介します。

◇会員の計報

角新圭司氏 二〇一二年逝去。九二年三月二四日入会、生駒市在住の頃は、熱心に例会に参加された。定年後郷里の奄美大島に帰郷された が退会せず一貫して会にご協力いただいた。
逆井孝仁氏 二〇一三年三月一四日肺気腫のため逝去された。一一年六月入会。東京都練馬区在住、享年八七。


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