Я[大塩の乱 資料館]Я
2003.2.11
2000.7.17
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大塩の乱関係論文集目次
「川 路 聖 謨 と 大 阪」
有働 賢造 (1907〜1945)
『上方 第141号 』上方郷土研究会編 創元社 1942.9 所収
◇禁転載◇
嘉永六年長崎を訪れた露国使節プーチヤチンの随行者ゴンチヤロフが書いた「日本渡航記」(岩波文庫)には、川路聖謨を評して次の様に記してゐる。
川路は非常に聡明であつた。彼は私達自身を反駁する巧妙な論法をもつて、その知力を示すのであつたが、それでもこの人を尊敬しない訳には行かなかつた。その一語一語が、眼差の一つ一つが、そして身振りまでが、すべて常識と、ウイツトと、燗敏と、練達を示してゐた。
幕府が長崎に派遣した聖謨との会見に基く生々しい印象がここに記されてゐる。長埼で会つた日本人てゴンチヤロフが讃辞を呈してゐるのは川路只一人である。「日本人」一般を評して、『幼稚で、未開な癖に狡猾な日本人』とか、『鎖国をしてゐると、知らず識らずのうちに、こうまで子供に返つて終ふものか』とさへ極言してゐるゴンチヤロフの聖謨評は、それだけにより高い意味が認められる。幕末の幕府政治家として最も開明的な思想を抱き、象山・小楠・左内等とよく、且つ明瞭な尊皇観に生きたのが彼であつた。明治元年三月十五日、江戸城明渡しの報を聞きつつ老残の身を割腹し果てたその晩節には、古武士的風格の色濃いものも見える。明治三十年川崎紫山が「幕末三傑」を著して川路をその中の一人として数へたことも亦故なしとしない。
一
聖謨は大阪にも所縁をもつた人であつた。その機会は必らずしも多くなかつたが、その滞阪は大阪にとつて重要な意味をもつてゐた。即ち彼は嘉永四年大阪町奉行となり、数箇月を直接市政に掌鞅するところがあつたのである。「浪花日記」(川路聖謨文書収)一篇は、その中に、大阪に関して特別の記述をしてゐないが、彼の大阪生活を意味づけるよすがと考へられる。嘉永四年十月 *1、彼は転じて勘定奉行となり、国防掛に任ぜられた。爾来安政五年西丸留守居に貶せらるるまで外交の繁務に携つたが、この間にも摂海防備等の要務を帯びて下阪し、大阪は彼の親近するところとなつてゐる。
嘉永四年六月廿四日大阪東町奉行に任命された聖謨は、十月二日江戸を発して大阪に向ひ、同月十八日大阪に着した。是より先き彼の妻は前任地奈良より大阪に来り聖謨を大阪に迎へた。大阪に着した聖謨はその翌日より奉行所に於て各方面の賀詞をうけ、又下僚、与力、同心の誓詞を検しなどして七日間を費し、八日目より市中の巡見をなした。着阪後巡見に及ぶ日割、次第書を詳記すれば
着二日目
一、組与力、同心礼 一、初而御城入
一、同役与力礼
三日目
一、町触 一、御城入
一、同役、与力残之分礼 一、組、与力、同心誓詞
四日目
一、蔵屋敷、留守居、并掟書印形
一、御太鼓坊主礼、引続誓詞
一、御城入、医師礼
五日目
一、寺杜礼、并銅座役人礼、 一、御城入
一、兵庫西宮名主、庄屋礼 一、同所地付同心礼并誓詞
六日目
一、兵庫西宮地付、同心残之分礼并誓詞
一、組同心残之分誓詞
一、三郷惣年寄并惣代廻船年寄誓詞
八日目
一、初而町巡見
九日目
一、弐度目町巡見
十日目
一、三度目町巡見
十一日目
一、両川口巡見
一、初而町巡見之次第
一、牢屋敷、下乗門外に、両組、牢扶持方与力四人出迎、門内に牢屋敷取締并詰合、鍵者同心罷出、詰合同心一人、先立に而、右与力跡より罷越、牢屋見廻、牢舎人、病人等、員数承り、夫より薬煎場え罷越、牢医師共両人罷出、病人者、容体等承り、夫より焚場え罷越、扶持米等も見分、両組盗賊吟味役与力、同心下坐、会釈之上、役所え通り、拷問道具等見分、畢而初之所に而乗輿、牢扶持方、初之所迄送り候事。夫より、銅座え罷越、門前に、銅座人、相揃出迎、地覆に而下乗、両組、銅座掛同心、栗石之上に出迎、同与力式台に出迎、并支配勘定、御普請役者玄関畳之上に出迎罷在、会釈、先番之近習先立に而、通り掛り、筆者、并手代者詰所に平伏、与力、役名披露、坐敷へ通、支配勘定に逢、次に、御普請役に逢、夫より両組、与力同心に逢、次に座人罷出与力披露、目通申付、畢而、白石、并銀等見分相済、帰之節、何れも初之通送り有之、夫々会釈罷在候事。夫より北組、惣会所、御霊之社、津村、御堂、瀬戸物店、和光寺に而昼休、仁徳天皇社、坐摩杜、難波御堂、傾城町巡見相済帰宅、往返道法、凡二里半有之候事。
一、 二度目町巡見之次第
一、当朝、御舂屋、市中囲米、籾蔵見分、夫より、元屋敷跡枳穀、夫より御薬草場、算用、回輪、玉造、稲荷社、御代官屋敷内、御石南組、惣会所、高津植木屋、高津社、生玉社、南之坊昼休、道頓堀、千日御仕置場、難波御蔵、三津八幡社、長堀石屋、銅吹所、巡見相済帰宅、往返道法、凡二里半有之候事
。
一、三度目町巡見之次第
一、当朝、唐物店、魚市場、米市場、北野村、神明社、同村、太融寺、天満組、惣会所昼休、夫より、天満天神社、両組、与力、同心組屋敷見分、調役支配与力、并迎与力宅ヘ、先格にて罷越、夫より、川崎新御蔵并御材木蔵、見分済帰宅、道法凡三里有之候事。
着任早々の多忙な彼の生活が窺はれる。町奉行在任中の彼の生活には鋭意市政に対する研究の努力は見られながら、彼の在任を特徴づけるに足る格別の施政は見られなかつた。博徒検挙等一二企図するところがあつたが、それも実行に至らず、嘉永五年八月 *1、召されて勘定奉行並に海防掛の要職に転じ、在任僅か十箇月にして聖謨は大阪を去つた。「聖謨遺言録」に『大阪は、一年に足らざる在勤故、何事も出来不申候而、帰府せり』と記されてゐる。複雑なる市政を処理するには尚借すに日を以てすベきであつたらうか。
在阪中聖謨が交りを厚くした人々に伊達自得(陸奥宗光の父・その伝記に高瀬重雄氏の近著伊達千広がある)大久保要(城代土屋釆女の公用人、横井小楠は柳川の池辺藤左衛門、徳山の井上弥太郎 安芸の吉村重助、京都の春日潜庵と彼とを推して天下の五才となしてゐる)上田角右衛門、広瀬旭荘等があつた。大塩事件に殊功のあつた与力坂本鉉之助も請はれて屡々彼と話を交へてゐる。旭荘は聖謨が大阪を去るに臨み詩を賦して彼を送つた。
奉送川路公東征、賂以養老杯
桴鼓不鳴董少平。
今時何人得此評。
我公臨任纔半歳。
盗賊屏跡獄訟清。
一朝街市色惨澹。
謳歌声変嘆息声。
吾聞借問是何故。
我公此去将東征。
吾道諸君休【心宛】惜。
皇穹早照公忠誠。
撫字心労考当最。
会見栄進在前程。
要為寰万降沛沢。
旨容一路留福星。
生平契濶趨謁牢。
子游定応恕滅明。
薄贐一杯請莫拒。
此亦劉寵一銭情。
杯小不堪容半勺。
食老之字見其銘。
銘者今年百廿二。
道是享保辛亥生。
公兮早達世無匹。
况遭聖明百事亨。
王橡不負黒頭語。
仲容夙著青雲名。
不祈公富増半勺。
祈公寿如銘者齢。
大阪町奉行として残すところの治績に特筆すべきものがなかつたとは聖謨自らのいふところてあつたが、その名声が『盗賊屏跡獄訟清。一朝街市色惨澹。謳歌声変嘆息声。』と旭荘をしていはしむるものをもつたことは、彼の在任が大阪に与へた影響と見ることができる 十閲月の大阪の生活は蓋し聖謨にとつてこの地を印象深いものとしたことであらう。
二
嘉永六年九月、露艦摂海に入京摂の地を騒がしたが、安政年間日本の対外関係が複雑化し摂海防備が喧しく取上げられたとき、国防掛としての聖謨の関心は勢ひこの地に向けられねばならなかつた。摂海防備が皇城警衛と不離のものであることは縷説を
要しないが、このことに聖謨に於て固より深く考慮したところであつたに相違ない。
摂海防備に閣する聖謨の主張は「大阪御城代江、 内密申上候大意」並に彼が藤田東湖に送つた書翰によつてこれを窺ふことができる。その説が摂海防備論中如何なる地位を占めるがに就いては 論議を略することとするが、先づ「大阪御城代江、内密申上候大意」には
然者大阪表異船之取沙汰承り候に付、汀呼寄承候処、去月十九日佐々木信濃守より、佐州表江異船渡来いたし、大阪江可罷越旨、申置候趣、佐渡奉行より通達有之候に寄而之事之由、佐州江参り候異船之、大阪江可参旨申候由者、私共も及承居申候、乍去異人之義、不慮に渡来いたし候儀も有之候間、治定者いたし兼候得共、近々可罷越旨申置候類、容易に参候義先ツ者無之候に付、推量いたし候所に而は、縦令参候とも、一ト方之義者有之間敷候に付、御あはて被成候而、火急之御備等御設、人気動静に拘候様之義者、成丈無之様之、御勘弁可有御座候哉、扨又、万々一異船参り候はゞ、京師などに而、御驚可被成哉も難斗候に付、閣下大阪に被為在候事故、粉骨を御尽被遊,御刀に被懸候而、大阪之地を踏越、京師江参り候様之御処置者、決而不被為成候積に付、京師に而御驚等無之様に被仰遣、乍恐所司代を御助け、輦下を御鎮静被成候程之御志、無之候而は相成間敷歟。若又其節よく御押ヘ、御鎮静之御所置行届候はゞ、夫こそ別段之御勤労も相立候義に付、必々御手丈夫之御見込可被為在候様奉存候、私義不遠上京いたし候間、浪華江参り候節、拝謁之上委細可申上候得共、夫迄之義深御案事申上候間、先ツ不取敢申上候。云々
と書き、以て外警に処すべき大阪城代の心構へを説いたのである。次に東湖への書翰には次の様に記されてゐる。
(前略)陳者右御閑話之節、御存慮御相談いたし候、浪華炮台之義、両川口とも追々寄洲に而、地方に相成、風聞之趣に而者、冲に而廻船之分も、荷おろしいたし不申候而者、川内江乗入候義、出来不申、測量之様子、凡一丈四五尺之場所者、いつれも寄洲より十町外と相聞候間、大船に而岸まで参候義者、決而出来不申、岸上とても三十町前後者、悉田畑之趣に付、いか様なる手段に而も、焼討等者勿論出来不申、然る上は海国図誌、開巻第一籌海篇のはしめに、論し有之候如く、下策者海中,中策は海口、上策者河内に防候と申候論、第一之御急務と奉存候、然る時者品川海御台場体之ものに而者如何と奉存候、依而者御話之通追而紀州浦江、大船等浮候積に而、当時者両川口江、小砲台等相立候斗に可有之と之御論、いかにもいかにも感服之御事に而、中々以私輩者、三舎四舎も退き、不申候而者、不相成事と奉存候、(ママ)義に御座候、ななるほど(ママ)川へ乗込候処を防候積に而、両川口より大阪之方へ寄候場所ヘ、陣営を立、人数を差置、陸戦之車台砲等多く貯置候はゞ、必御用に可相立哉、譬者夷人は病ひ、兵は薬に而,病症的当に無之薬に而者、江戸之砲台に百倍之もの出来候とも、少も御用に者相成不申、薬効者無之と申ものに御座候、只金銀を費候而、余所之聞へ宜様之、海防御備出来候而者、京師御崇敬、真実之味ひ如何可有之哉と心配いたし候義に而、私を再見分に被遣候上者、とても出来は仕間敷候得共、病に応し候薬をもり申度と、其所に朝夕心配いたし居候義に御座候、尤兵者地理より生し候ものに付、此上彼地へ参候上に無之候而者、いつれとも難申、且今船者江戸砲台を取立候、江川太郎左衛門家来、卿雲其之外もの共をも選候而、別段召連候間、彼等之議論も可有之哉に付、相決候筋に者無之候得共、過日御話に及ひ、御教示之奇論等可相成者、老君様江詳に被入御聴候様仕度義に御座候、扨又浪華砲台之義者、京師に而御安心被遊候様とて、関東よりも再ひまて御役人を被遣候義に付、不一方御配慮之次第に有之候間、京師に而御安心被遊候様、御取計之御含を以、其趣鷹司相公等江老君様より程能被仰遣候様之御処置者有之間敷哉御熟考可被成下候。(下略)
この書翰の日付は九月七日となつでゐるが、この日払暁聖謨は江戸を立つて大阪への旅途についてゐる。彼のこの度の上方行はその目的京都御所御造営並に大阪砲台場所見分御用にあつたが、嘉永米船渡来以降急激に高められた時局の要請が、幕府をして聖謨を派遣するの余儀なきに至らしめた事情をここに察することができる。聖謨のこの行は彼の「京都日記」(川路聖謨文書収)にその仔細が記されてゐる。安政二年九月廿三日聖謨は京都に入り、この地に於ける諸事を一応終了し、十月六日京都を発して淀川を下り、翌七日暁宿舎天満組惣会所に入つた。大久保要、広瀬旭荘坂本鉉之助等の旧知は続々としてその宿舎を訪れた。「京都日記」安政二年十月十三日條には「今日は宅調也、例之通人々来り、大阪之地役其外来りて夜五ツ半過まてしはしもひまなし、坂本鉉之助来る、例之通議論、夜ふくるまて居申候」と書いてゐる。彼等との会談は彼の旅愁を忘れしめたことであつたらう。大阪台場巡視はこの月九日から始められた。即ちこの日七ツ時大阪を出立した聖謨は住吉神社に詣うで、岸松亭に小休し、それより海浜を巡視して堺に至り、堺奉行関出羽守一行とその地の台場を検分し、木津川口ヘ来り、台場予定地を検分したのであつた。
すみよしの名にしまことのかみならば
御代うらやすに千世も(ま)もりませ
ゑみし等が船打くたくこゝろをは
あはれうけませ すみよしの神
右の歌は住吉神社に於ける聖謨の詠であるが、神に外警撃攘を祈る彼の敬虔な熱情は、大阪行に対する彼の心底を示して余すところがない。この夜聖謨は津守新田に泊し、翌十日、天保山に於て大阪町奉行に会し、防海のことに就いて談合の後、尼ケ崎に向ひ、その夜は尼ケ崎に泊、十一日西宮海岸の要地を視察し、御影の嘉納家に泊した。次いで十二日御影より兵庫を経て和田岬に到り、この地に建設せらるベき砲台新築の縄張りを遂げたのであつた。斯くして聖謨は十三日大阪に帰つた。台場見分の行はここに滞りなく終了したのである。十一月七日京都を発した聖謨は廿一日正午江戸に帰着した。京師警衛、摂海防備は以後幕府財政疲弊の際にも拘はらず漸次その進捗を見たのであるが、これは全く聖謨の努力に負ふものであつて、彼は皇室の御事と防海については入費を惜しむベからずと切言し、以て上司に説き、その促進に努めたといふことである。安政五年聖謨は閣老堀田備中守に陪従して京都に赴いた。その用務は安政和親條約に関して勅許を仰ぐにあつた。この行たるや極めて重要なる問題であり、且つ聖謨に陪従の身として余裕をも得なかつたのであらう。下阪の記事は見出
し得ない。(本稿は川路寛堂 *2 著「川路聖謨之生涯」によるところが多かつた)
管理人註
*1『柳営補任』では、嘉永5年9月10日。
*2 川路聖謨の孫。
◆この論文は、『続 江戸時代と大阪』(有働賢造著 有働美代子 1972)にも収録されています(一部脱落・訂正あり)。◆
参考
川田貞夫『川路聖謨』吉川弘文館 1997
吉村昭『落日の宴 −勘定奉行川路聖謨−』講談社 1996
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